第三十六話 たったひとつの選択肢
「一つだけ、対策があります」
ベイオベア卿の声は重かった。その言葉は、たしかに希望の形をしていた。けれど、対策、という言葉は、治る、とは違う。助かる、という言葉とも、少し違う。ローティさんが息を呑み、オーレリアさんはペンを握ったまま動かない。ヴァンさんは、ベイオベア卿の顔をじっと見ていた。マギさんは何も言わない。マナさんも黙ったままでいる。ただ、レオナさんの肩に置いた手を離さずにいる。
「それは、どういうものなんですか」
わたしが尋ねると、ベイオベア卿は少しだけ目を伏せた。口にするだけでも重いものを、どこから持ち上げればいいのか考えているようだった。
「永眠封印という術式がございます」
知らない言葉だった。眠るという言葉は、普通なら優しい。疲れた時に休むこと。明日のために目を閉じること。でも、そこに永いという字が付いて、さらに封印という言葉まで重なると、急に違うものになる。眠るというより、隠してしまうとか、閉じ込めるという響きに近い。
「眠らせる、ということですか」
「左様でございます。ただし、ただの眠りではございませぬ」
ベイオベア卿は、レオナさんではなく、わたし達の方を見た。
「御身を、時間の流れから切り離す。眠りに落ちた者は、食物も、水も、空気も必要とせず、老いることもない。病も、呪いも、毒も、その進行を封じられる。治すのではありませぬ。されど、悪くなることも止める」
「時間を、止める……?」
オーレリアさんが、ほとんど無意識のように呟いた。記録者の顔ではなかった。知らない術式に興味を持ったというより、その意味の重さに気圧され、呑まれている顔だった。
「それは、寝ている間だけ、なのよぅ?」
「目覚めぬ限り、でございます。この術式は、救う術であると同時に、託す術でもあります。今の時代で救えぬ者を、いつか救えるかもしれぬ未来へ送る。繋ぐ。そういうものです」
未来へ送る。その言葉だけを聞けば、少しだけ綺麗に聞こえた。でも、すぐに分かる。送られる側は、今を離れるのだ。今日の声も、明日の朝も、誰かと食べるご飯も、窓から見る空も、全部ここに置いていく。時代から取り残される。
わたしは、寝台の上のレオナさんを見た。レオナさんは泣いていなかった。怖がっていないようにも見えた。でも、それが本当に怖くないからなのか、もうずっと前から怖がる時間を通り過ぎてしまったからなのか、わたしには分からなかった。ただ少し、寂しそうに見えた。
「それは……死ぬのとは、違うんですよね」
ローティさんが、絞り出すように言った。いつもの軽い調子は、どこにもなかった。俺、変なこと聞いてる? みたいな逃げ道も作らない。ただ、聞かずにはいられないという顔で、ベイオベア卿を見ている。
「死ではございませぬ。されど、普通の眠りでもありませぬ。呼びかけても、揺さぶっても、痛みを与えても、目覚めることはない。傷付く事も老いる事も無い。そんな永い眠りの中で、姫様のお命は守られる」
部屋の中に、何か冷たいものが降りた気がした。死ではない。でも、明日起きない。それは救いなのだろうか。違うと言いたかった。でも、他に方法がないと言われた後で、それを残酷だと切り捨てることもできなかった。他に良い方法が思い付くはずもない状況では、なおさらだ。
「いつ、ですか」
声が出たのは、わたしだった。聞きたくなかった。でも、聞かなくても、その日は来る。なら、知らないふりをしている方が怖かった。ベイオベア卿は、また少し黙った。今度は、レオナさんの方を見る。レオナさんは、小さく頷いた。マナさんは何も言わない。マギさんも、唇を結んだままだった。
「色々な事情を鑑みて、九月七日でございます。その日は、姫様の十歳のお誕生日でございます」
九月七日。十歳の誕生日。わたしは、その日付を心の中で繰り返した。今は七月だ。夏休みが来る。暑い日が来る。林間学校の話も、教室ではもう出始めている。その少し先に、九月七日がある。二学期が始まって直ぐだ。遠いようで、近い。数えようと思えば、数えられてしまう日数だ。
十歳。おめでとうと言われる日。ケーキとか、ごちそうとか、贈り物とか、そういうものが浮かぶ日。少なくとも、わたしの知っている誕生日はそうだった。でも、レオナさんの十歳の誕生日は、眠る日になる。誰かが祝う前に、あるいは祝ったあとに、レオナさんは深い眠りへ入る。明日の朝、目を覚まさない眠りへ。
「それまで、レオナはシュティレン・ヒューゲルへ戻ります」
マギさんが、静かに言った。
「グレーヴェン・ロスシルト大公のもとで、残された時間を過ごす予定です」
「シュティレン・ヒューゲル……」
わたしが聞き返すより早く、オーレリアさんが小さく補ってくれた。
「レオナ様の実家がある街。鉄道都市なのよぅ。大陸鉄道の実質上の中央駅で、列車の格納と整備点検が行われる場所でもあるのよぅ。それと伝統的な緑茶の名産地で、技術屋さんもたくさんいて、面白い魔道具屋さんもあるのよぅ。わたしも、大好きな街の一つなのよぅ」
それを聞いて、レオナさんは、小さく笑った。故郷のことを好きと言ってくれたからだろうか。レオナさんが口を開いた。
「グレーヴェン大公閣下。わたしのお爺様は、とてもお優しい方です」
その声は嬉しそうだった。けれど、その嬉しさがまた苦しかった。帰れるのはいいことだ。待っている人のところへ行けるのは、きっとレオナさんにとって大切なことだ。でも、その帰郷が最後の時間を過ごすためだと思うと、どうしても胸がつかえた。眠る日が決まっている。なら、その日までの時間は、ただ待つためだけのものではないはずだった。ふと、教室で聞いた話を思い出した。夏休み。行事。林間学校。誰がどこへ行くのか。誰が学院に残るのか。そんな声が、少し前の教室にはたくさんあった。
「あの」
わたしは、思わず尋ねていた。
「レオナさんは、林間学校には行かないんですか」
自分で言ってから、少しだけ後悔した。今、それを聞くのは場違いかもしれない。永眠封印の話をしていた。九月七日の話をしていた。そこで林間学校なんて言葉を出すのは、あまりにも軽い気がした。でも、レオナさんの目が、ほんの少しだけ動いた。それだけで、聞いてよかったのかもしれないと思った。
「行けない」
答えたのは、マギさんだった。
「夏休み中、僕とマナは首都ラヴェニカへ戻らなければなりません。皇家の用もありますし、学院の林間学校には同行できない」
マナさんは何も言わなかった。けれど、その沈黙は否定ではなかった。
「林間学校は、生徒達の行事でございます」
ベイオベア卿が続けた。
「大人の付き添いは、教師と最低限の管理役に限られる。姫様付きの侍女や護衛が、日中の班活動に同行することは許されませぬ」
「でも、レオナさんは……」
病気だ。皇族だ。守られなければならない。そう言いかけて、言葉が止まった。それを理由にして、レオナさんは行けないのだ。
「姫様を、信頼できる者なしに野外行事へ出すわけには参りませぬ。マナ殿下、マギ殿下が同行できぬ以上、参加は見送る。それが、現在の判断でございます」
正しいのだと思う。たぶん、すごく正しい。ベイオベア卿は間違っていない。レオナさんの体調を考えれば、不測の事態がある林間学校なんて危ない。森や山や川がある。転ぶかもしれないし、熱を出すかもしれないし、何かあった時に、すぐ大人がそばにいないかもしれない。それでも、わたしはレオナさんを見てしまった。レオナさんは、少しだけ俯いていた。
「行きたかったんですか」
聞いてしまった。レオナさんは、すぐには答えなかった。寝具の上で、細い指を重ねる。その指先が、ほんの少しだけ動いた。それから、遠慮がちに言った。
「はい。行ってみたかったです」
それだけだった。でも、その一言で十分だった。魂を落っことしている場合ではないと思った。
「森の中を歩いたり、みんなでご飯を作ったり、夜にお話をしたりするのだと聞きました。わたしは、そういうことを、あまりしたことがありません」
レオナさんは、少し恥ずかしそうに笑った。
「だから、一度だけでも、行ってみたいと思いました」
一度だけ。その言葉が、胸に刺さった。普通の生徒なら、行くか行かないかで迷う行事かもしれない。面倒だとか、虫が嫌だとか、荷物が重いとか、そんな文句も言える。でも、レオナさんにとっては、一度だけでも、なのだ。
「なら、おれたちが付き添う」
先に言ったのは、ヴァンさんだった。わたしが何か考えている間に、もう決断してる。ベイオベア卿の目が、ヴァンさんへ向いた。
「おまえ達に、騎士の代わりが務まるとでも?」
声は低かった。責めているというより、確かめている声だった。ヴァンさんは、少しも迷わずに答えた。
「騎士なんて知らない。でも、危ないことから守る。レオナは大丈夫だ」
「気持ちだけで、姫様を守れるものではない」
「分かってる」
ヴァンさんの言葉は短い。けれど、いつものように、軽くはなかった。
「なら、俺が騎士になる!」
ローティさんが、急に身を乗り出した。その瞬間、部屋の空気が少しだけ変な方向へ揺れた。
「いや、今から?」
わたしは思わず小さく言ってしまった。ローティさんは真剣だった。
「今からでもなる。姫様を守る騎士が必要なら、俺がなる」
「ローティさん」
オーレリアさんが、静かに言った。
「その気持ちは立派だけど、今は勢いだけで話す場面ではないのよぅ」
「でも」
「だから、客観的な材料を出すのよぅ」
オーレリアさんは、手帳を開いた。今度は、完全に記録者の顔だった。
「まず、ヴァンさんは騎士ヴァルク様の弟なのよぅ。幼い頃から剣を習っている。旧塔での判断力も、行動の速さも、わたし達は見ているのよぅ」
ベイオベア卿の目が、わずかに変わった。
「ヴァルクの弟、だと?」
「はい。あのヴァルク様の弟なのよぅ」
ベイオベア卿は、初めてヴァンさんを見る目を少し変えた。値踏みではない。認識を改める目だった。ヴァンさんは、兄貴を引き合いに出されて、少し不貞腐れたような顔になったけれど。
「それから、ローティさんも、勢いだけではないのよぅ。ヴァンさんには負けてばかりだけど、それでも剣を交わせる程度には動けるのよぅ」
「負けてばかりは余計だろ」
「事実なのよぅ」
ローティさんが少しだけ唇を尖らせた。けれど、すぐに真面目な顔に戻った。
「でも、やる。俺も守る」
「さらに、ドゥフテヴァルト公爵家のロイ・アッシュフィールド様もいます」
オーレリアさんは続けた。
「わたしの婚約者です。力があり、責任感もあります。旧塔の件でも、最後まで一緒に行動しました。頼れる人です」
そこで、ヴァンさんが言った。
「ハリスとハリエットも助けてくれる。絶対に」
まだ本人達に聞いたわけではない。でも、ヴァンさんはそう言った。それは願望ではなく、信頼だった。オーレリアさんも頷いた。
「ハリスさんは判断力があります。ハリエットさんは、あの戦術ドルイドの訓練を受けているのよぅ。林間学校では、むしろ一番頼りになるかもしれないのよぅ。森や野外活動で、ハリエットさん以上に頼れる生徒はそう多くないと思います。きっと大人も顔負けなのよぅ」
ベイオベア卿は、黙って聞いていた。わたしは、そこでようやく口を開いた。
「まだ、みんなに聞いたわけではありません。だから、絶対に約束できますとは言えません。でも、旧塔の時、みんな一緒でした。怖いところも、危ないところも、一緒に越えました。だから、レオナさんを一人にはしません」
マギさんが、そこで口を開いた。
「僕とマナは、レオナが望むなら異存はありません」
マナさんは何も言わなかった。けれど、レオナさんの肩に置いていた手を離さないまま、静かに頷いた。それは、反対しない、という返事だった。チャミーさんが、そっと口を開いた。
「あのう、ベイオベア様」
ベイオベア卿は、チャミーさんを見る。
「おらも、ほんとうはお止めすべきなのは分かっておりますだ。けれど、レオナ様は、ずっと我慢してこられました。行きたいところも、したいことも、たくさん諦めてこられました」
チャミーさんの声は、少し震えていた。
「この方々は、レオナ様を粗末にはしねえと思いますだ。ミコト様も、ヴァン様も、前にレオナ様を助けてくださいました。おらも、助けていただきましただ」
ベイオベア卿は、何も言わなかった。
「おらは、林間学校にはついて行けませぬ。規則があるなら、そこは守らねばなりませぬ。でも、もしこの方々が一緒にいてくださるなら……おらは安心できますだ」
チャミーさんは、そこでレオナさんを見た。
「それに何より、この方々が一緒なら、レオナ様が、笑ってくださると思いますだ」
ベイオベア卿の顔が、苦しそうに歪んだ。それは、怒りではなかった。たぶん、一番言われたくなかったことだったのだと思う。安全のために止める。その判断は正しい。正しいけれど、その正しさは、レオナさんの笑顔を一つ奪うかもしれない。レオナさんは、静かにベイオベア卿を見上げた。
「ドルガン」
「姫様」
「わたし、皆様と林間学校に行きたいです」
さっきより、はっきりした声だった。
「無理はしません。皆様の言うことも聞きます。具合が悪くなったら、すぐに休みます。だから、一度だけ、最後に一度だけ、みんなと同じ行事に行ってみたいです」
ベイオベア卿は、しばらく何も言わなかった。部屋の中の誰も、急かさなかった。マギさんも、マナさんも、チャミーさんも、わたし達も、ただ待った。やがて、ベイオベア卿は覚悟を決めたように、深く息を吐いた。
「……条件がございます」
レオナさんの顔が、少しだけ明るくなった。わたしも、思わず身を乗り出す。
「日中の活動に限り、そなた達の付き添いを認めます。姫様を一人にしないこと。危険な場所へ近づかないこと。体調に異変があれば、ただちに中止すること。教師の指示に従い、勝手な行動はしないこと」
「はい」
わたしは、すぐに頷いた。オーレリアさんも頷き、ローティさんも何度も頷く。ヴァンさんは一度だけ、静かに頷いた。
「加えて、担当教師には事前に事情を伝え、休憩地点と緊急時の合図を定めます。姫様の体調が崩れた時点で、班の活動は中止。異論は認めませぬ」
その声は、許可というより命令に近かった。
「分かりました」
今度も、すぐに頷いた。そこだけは、絶対に軽く考えてはいけないと思った。
「それから、宿所だけは、我等が近くに結界小屋を用意いたします。さすがに、姫様を他の生徒達と同じ野外のテントで休ませるわけには参りませぬ」
それは当然だと思った。
「夜は、我等が護衛いたします。チャミーも、護衛も、姫様の近くに控える。夜間は、そなた達へ預けるわけには参りませぬ。これが条件でございます」
「分かりました」
わたしは答えた。夜は大人が守る。それは正しい。昼間だけ、みんなと一緒にいられればいい。レオナさんが林間学校に行けるなら、それだけで十分だと思った。レオナさんは、両手を胸元で重ねていた。
「ドルガン」
「はい」
「ありがとうございます」
ベイオベア卿は、少しだけ目を伏せた。
「礼を言われることではございませぬ。姫様の願いであれば、叶えられるものは叶えたい。ただ、それだけでございます」
チャミーさんが、涙をこらえるように口元を押さえていた。マギさんは小さく息を吐き、マナさんは何も言わないまま、レオナさんの肩から手を離した。ローティさんが、耐えきれなくなったみたいに小さく拳を握る。
「やった」
その声があまりにも小さかったので、誰も叱らなかった。オーレリアさんは、手帳に何かをたくさん書き始めた。たぶん、いま決まった条件を全部書いているのだと思う。ヴァンさんは、レオナさんを見ていた。何かを約束するような顔ではない。ただ、もう守ると決めた顔だった。
レオナさんは、笑っていた。林間学校に行ける。たったそれだけのことが、レオナさんにとっては、こんなにも大きい。わたしは、その笑顔を見ながら思った。この子を、ちゃんと連れて行こう。森の匂いも、小川の音も、みんなの声も、ちゃんとレオナさんに渡そう。九月七日のことは、まだ怖い。永眠封印のことも、分かったようで、何も分かっていない。けれど、少なくとも林間学校までは、まだ時間がある。その時間を、ただ待つだけにはしたくなかった。
レオナさんは、わたし達を順番に見た。
「よろしくお願いします」
その声は、やっぱり可愛かった。でも今度は、魂が抜けるより先に、わたしはちゃんと頷いた。
「はい。一緒に行きましょう」




