第二十八話 開かずの塔
落ちる。
そう思った時には、もう金属の音がしていた。ヴァンさんの手が動いていた。声より先だった。腰の後ろ側、隠すように鞘が横向きに結ばれていた。そこから一瞬の間に抜かれた短い刃が、滑らかに変わりゆく石段の隙間へと突き込まれる。
がつん、と硬い音が響いて、そこで落下が止まった。
「っ」
ヴァンさんの腕が、わたしの重さごと引っ張られて伸びる。けれど、掴まれた手は離れない。体力も筋力も瞬発力もない弱っちいわたしの体は、その腕に引っかかるみたいに止まった。肩が痛い。手も痛い。でも、落ちていない。落ちていないというだけで、奇跡みたいなものだ。痛いことなんて、あとで考えればいいと思った。
「ミコト」
そこで初めて、ヴァンさんがわたしの名を呼んだ。短い声だった。同時に、ぐっと引かれる。わたしは両手でヴァンさんの片手にしがみついた。
「は、はいっ」
返事になっていたかどうか分からない。その直後、下でハリスさんの声がした。
「姉さん、無事?」
低いのに、よく通った声。見ると、ハリスさんが片腕でヴァンさんの脚を掴んでいた。もう片方の手は、ハリエットちゃんを掴んでいる。ハリエットちゃんも、その手を掴み返していた。更にその下で、ロイさんが片腕でハリスさんの脚を掴み、もう片方の手でオーレリアちゃんの手を掴んでいた。オーレリアちゃんは、手帳を胸元に抱えていた。
「うわああああ!? 痛えっ!?」
下へ滑り落ちて行ったローティさんの声が、遠ざかり、何かにぶつかる音がした。多分、壁か扉。
声が途切れる。
「うん、私は無事だけど…、ローティ君が」
ハリエットちゃんが息を呑んだ。オーレリアちゃんは手帳を抱えるのに必死だった。ロイさんはオーレリアちゃんを支えるのに必死だった。ハリスさんが、すぐに下へ声を落とす。
「ローティ、返事!」
少しだけ間があった。
「……生きてる」
下の方から、声が返ってきた。全員が少し息を吐いて、少しだけ緩んだ。
「怪我は」
「たぶん、大丈夫」
「登れるか」
「無理そう」
「分かった。そこで待て。声は抑えろ」
「……分かった」
そこで会話は止まった。塔の中に、また息遣いだけが戻る。
石の斜面の上に、わたし達はヴァンさんを先頭に、妙な形でぶら下がっていた。
「姉さん、先に上へ。僕とヴァンを踏んで」
ハリスさんが言った。
「うん」
ハリエットちゃんはすぐに頷いた。
「ごめんね」
「いいから早く」
ハリエットちゃんは、ハリスさんの腕と肩に足を掛けた。ハリスさんが少しだけ息を詰める。そこからさらに、ヴァンさんの脚の横を伝うようにして、上へ手を伸ばした。
「ヴァン君、すみません」
「いい」
ヴァンさんは短く答えた。
ハリエットちゃんは、ヴァンさんの肩の近くまで登り、滑らかになった石の端へ手を掛けた。細い体が、ぐっと上へ動く。思っていたより、ずっと身軽だった。ハリエットちゃんは斜面の上側、階段の踊り場に出ると、すぐに振り返って身を伏せた。腕を伸ばす。
「ミコトさん、手を」
「は、はい」
わたしは上を見た。自力で登れる気は、まったくしなかった。腕には力が入らないし、足は滑るし、そもそも自分の体を上へ引き上げる方法が分からない。でも、ハリエットちゃんの手がそこにあった。ヴァンさんの手が、わたしを少し引き上げる。
「行けるか」
「たぶん、無理です」
「なら、押し上げる」
「はい」
ハリエットちゃんがわたしの腕を掴む。わたしも片手を放して伸ばし、必死でその手を掴んだ。
「せーの」
ハリエットちゃんの声に合わせて、ヴァンさんがわたしの手を勢い良く引き上げた後、掴む位置を手首から腕へずらし、わたしの脇の下を押し上げた。おしりでなくて本当に良かったと思う。わたしの体が、ずる、と上へ動いた。
「きゃっ」
「もう少し」
ハリエットちゃんが引っ張ってくれる。わたしは靴先で石を探すけれど、ほとんど役に立たなかった。最後は、半分引きずり上げられるみたいにして、ようやく上へ出た。
床に転がる。息が切れた。大して何もしていないのに、ものすごく疲れていた。
「大丈夫?」
「はい……ありがとうございます」
ハリエットちゃんは、すぐに下へ向き直った。
「次、オーレリアさん」
「ロイ様?」
「背中に」
ロイさんが言った。
「この方が早い」
「でも」
「落とさない」
ロイさんの声は、短く、真面目だった。オーレリアちゃんは少し迷ったけれど、手帳を投げて寄越してから、ロイさんの背にしがみついた。ハリエットちゃんが手帳を受け止める。ロイさんは、もう片方の手でハリスさんの脚を掴み直す。
「登るぞ」
「ロイ様、無茶はしないで」
「無茶ではない」
「今、とても無茶に見えるのよぅ」
「そう見えるだけだ」
ロイさんは、ハリスさんの体と、さらにその上のヴァンさんを遠慮なく足場にするようにして登り始めた。ハリスさんが歯を食いしばる。ヴァンさんも、少し息を止めた。
「重い」
「……」
「すまん」
「謝るなら早く行け」
「………」
「そうする」
ロイさんは本当に速かった。オーレリアちゃんを背負ったままなのに、腕と脚で体を引き上げ、斜面の上へ出る。ハリエットちゃんとわたしが、オーレリアちゃんの腕を引いて抱き留めた。
「オーレリアちゃん」
「大丈夫なのよぅ……たぶん」
オーレリアちゃんは上へ出ると、一休みとばかりに床に座り込んだ。でも、ハリエットちゃんが手帳を差し出すと、シャキっと身を起こした。
「助かったわよぅ」
「手帳が? あなたが?」
「手帳よ。記録係ですもの」
少し震えた声だったけれど、そこだけは譲らないらしい。
次に、ハリスさんが登った。
ロイさんが上から手を伸ばし、ハリエットちゃんも横から支える。ハリスさんは体勢を整えながら、無駄の少ない動きで上へ出た。
最後に、ヴァンさんだけが残った。
石に突き込まれたダガーが、まだ彼の体を支えている。
「ヴァンさん」
わたしが呼んだ時には、差したダガーを支点にして、身体を横に振って、足の届く壁を蹴って跳び上がって来ている所だった。
全員が、滑り台になった階段の上側に戻った。しばらく、誰も喋らなかった。息の音だけが、狭い塔の中に残っていた。
ハリスさんは滑らかな坂と、壁と、ダガーが刺さっていた石の隙間を順番に見た。階段は、まだ滑らかな坂になっている。さっきまで段だったものは、きれいに形を変えたままだ。どこかに取っ手や仕掛けがあるようにも見えない。
「戻せる?」
オーレリアちゃんが声を抑えて聞く。
「今のところ、方法は見えない。しばらく待てば戻るかもしれないけれど…」
ハリスさんは答えた。
「ローティ君は?」
「下で待ってもらうしかない」
ハリエットちゃんが心配そうに下を見た。けれど、もう声は掛けなかった。大きな声は出せない。それは、皆が分かっていた。
「元からあった罠か、後から付けた罠か」
ハリスさんが言った。
「それ、重要なことか?」
ロイさんが聞く。
「重要だ。元からなら、ただの星見の塔に、どうしてこんな罠があるのかという話になる」
ハリスさんは壁に指を添えた。
「後付けなら、誰が、何のために、こんなものを作ったのかという話になる」
「どちらにしても、ろくな話じゃなさそうなのよぅ」
オーレリアちゃんが言った。
「だな」
ヴァンさんが短く答える。
「調べる方法は?」
ハリエットちゃんが聞く。
「登るしかない」
ハリスさんは、ほとんど迷わず言った。
「上に何があるか見れば、少しは分かるかもしれない」
その言葉で、皆の視線が上へ向いた。螺旋階段は、まだ続いている。さっきまでより、暗く見えた。ヴァンさんは、手の中のダガーを見た。石に突き込んだせいか、刃の端に白い傷がついている。
「ヴァンさん、それ、持ってきていたんですね」
わたしは思わず言った。
「危ないかもしれないからな」
ヴァンさんは当然みたいに答えた。
「持ってきて良かった」
「そう、ですね」
確かに、持っていなければ落ちていた。
「護身用なら、僕もある」
ロイさんが言って、腰のあたりを軽く叩いた。
「貴族の子息なら、最低限は持つように言われる」
「私も持っています」
ハリエットちゃんが言った。その声は普通だった。自分の筆記具を持っているとか、予備のリボンを持っているとか、そういうことを言う時と大きく変わらなかった。
「自決用に、持つように言われているので」
わたしだけが、たぶん固まった。
自決用。
その言葉が、頭の中で妙にはっきり響いた。けれど、ハリエットちゃんは深刻そうではなかった。ハリスさんも、ロイさんも、オーレリアちゃんも、驚いていない。そういうものとして、そこに置かれている言葉みたいだった。
「オーレリアちゃんも?」
わたしは聞いてから、聞いてよかったのか分からなくなった。
オーレリアちゃんは、その大きな革手帳を胸元に寄せる。
「私は、手帳だけでも荷物なのよぅ」
「そこなの?」
ハリエットちゃんが少し困った顔をした。
「記録係には記録係の荷物があるのよぅ」
わたしは確かに大荷物だなと思った。
「僕は刃は得意じゃない」
ハリスさんが言った。
「だから、持っていても意味がない。でも代わりに、これがある」
ハリスさんは鞄から細く巻かれたロープを出した。それを見た瞬間、ヴァンさんが少しだけ目を細める。
「使えるな」
「使うべきだ」
ハリスさんが言う。
「次に同じことが起きたら、今度は全員が都合よく掴まれるとは限らない」
「命綱なのよぅ」
オーレリアちゃんが言った。
「そう」
ハリスさんは頷いた。
「全員を結ぶ」
わたしは自分の腰のあたりを見た。
刃物もない。
ロープもない。
わたしが持っているものといえば、これしかなかった。
「あの」
つい、言ってしまった。
「わたしには、眼鏡があります」
皆が、こちらを見た。
言ってから、わたしは少しだけ後悔した。やってしまった。いや、これは何か、言わない方がよかったのではないだろうか。何となく、流れで言ってしまったけれど、眼鏡があると言われても、だから何だという話で、武器にもならないし、護身具にもならないし、そもそも今も顔に掛かっているから、ありますという宣言をするほどのものでもなかった。
けれど、ヴァンさんは真面目に頷いた。
「眼鏡は、火を起こす時に役立つ」
「え」
「爺ちゃんの老眼鏡でやった。水を垂らして、太陽の光を集める。おがくずなら火がつく」
「そう、なんですか」
「そうだ」
「いや」
ハリスさんが冷静に言った。
「それは多分、老眼鏡だからだな。ミコトさんのは近視用だから、駄目だと思う」
「あ」
わたしは眼鏡に触れた。
「そう、なんですね」
「なんで、そういうこと言うの」
ハリエットちゃんが、ハリスさんを見た。
「事実だから」
「今それ言わなくてもいいでしょう」
「使えるかどうかの話だろ」
「そうだけど」
ハリエットちゃんは少し困ったようにわたしを見た。
わたしは、何となく頭を下げる。
「なんか、その、すいません……」
「なんで?」
ヴァンさんが首をかしげた。
「早く行くぞ」
ロイさんが言った。
ハリスさんはロープをほどき、手際よく長さを見た。
「先頭はロイ」
「分かった」
「最後尾はヴァン」
「ん」
「その間に、前から僕、姉さん、オーレリア、ミコトさん、結び目は短めにする」
ハリスさんの指示に、誰も余計なことを言わなかった。
ロープが腰に結ばれる。
少し心許ないけれど、何もないよりはずっといい。ハリスさんが結び目を確認し、ヴァンさんが最後に一つずつ目で見た。
「きつくないか」
ヴァンさんが聞く。
「大丈夫です」
「そうか」
わたし達は、もう一度階段を登り始めた。
先頭はロイさん。
その後ろにハリスさん。
ハリエットちゃん。
オーレリアちゃん。
わたし。
最後尾にヴァンさん。
滑り台の罠は、その後は起きなかった。けれど、誰も気を抜かなかった。足を置くたびに、石が動かないか確かめる。壁に手を添え、次の段を見て、音を聞く。外の音は、もうまったく聞こえない。ただ、足音と、息遣いと、ロープが衣服を擦る音だけがあった。どれくらい登ったのか分からなくなってきた頃、先頭のロイさんが止まった。
「止まれ」
全員が止まる。
「どうした」
ヴァンさんが後ろから聞いた。
「道がない」
「道がない?」
ハリスさんが聞き返す。
わたしは前を覗き込もうとして、ロープに引かれて少し止まった。
階段は、そこで終わっていた。
上には、水平の通路が続いている。けれど、その通路は途中で途切れていた。
床がない。
向こう側には、また通路がある。けれど、こちらとの間には大きな切れ目があった。遥か下が見える。ここまで登ってきた高さが、そのまま足元に落ちている。たぶん、四階くらいはある。
落ちたら、助からない。
風が、そこだけ少し冷たかった。ロイさんが、向こう側を見た。オーレリアちゃんが手帳を握る。ハリエットちゃんが、小さく息を呑んだ。ハリスさんは黙って距離を測るように見ていた。ヴァンさんは、何も言わない。
わたしは、途切れた通路を見つめた。
「これ」
声が、小さく出た。
「どうやって渡るんですか?」




