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緋鋼皇国物語Ⅰ 第一期 第一部 七聖学院編  作者: ふみの世界樹
第三章 残された声

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第二十九話 跳べ


「これ」


 声が、小さく出た。


「どうやって渡るんですか?」


 通路は、途中で途切れていた。こちら側の床と、向こう側の床。その間には、大きな切れ目がある。下は見える。ここまで登ってきた高さが、そのまま足元に落ちている。たぶん、四階くらい。もしも転落したら、きっと助からない。


「跳ぶしかないな」


 ロイさんが言った。


「跳ぶんですか」


「他に道がない」


 ロイさんは向こう側を見た。ハリスさんがロープを手繰る。ヴァンさんが後ろで弛みを取る。ロイさんが一度だけ頷いた。それだけだった。ロイさんが一歩下がる。走る。床の端を蹴る。


 跳ぶ。


 体が空中に出る。足元には何もない。ロープが張って、ハリスさんとヴァンさんの腕に力が入る。ロイさんの足が、向こう側の床に届いた。片膝をつく。けれど、落ちなかった。


「着いた」


 ロイさんはすぐに立ち上がり、向こう側でロープを握った。壁の欠けた石にロープを回し、片手で押さえる。


「次」


 ハリスさんが言った。自分のことだった。ハリスさんはロープの長さを見た。ヴァンさんが頷く。ハリスさんも頷き返す。すぐに跳んだ。ロイさんほど大きくは跳ばない。けれど、無駄がない。着く場所を決めて、そこへ体を運ぶみたいな跳び方だった。ロイさんが腕を伸ばす。ハリスさんの手を掴む。ハリスさんは向こう側へ膝をつき、そのまま床へ上がった。


「問題ない」


 ハリスさんが言った。


「次、ハリエット」


「うん」


 ハリエットちゃんは小さく頷いた。ロープの長さを整える。息を整える。向こう側で、ハリスさんとロイさんが手を伸ばす。ハリエットちゃんは床の端を蹴った。ふわり、と軽く見えた。それでも、下は四階分ある。ハリエットちゃんの手が、ハリスさんの手に届く。ロイさんも腕を伸ばして、肩を支える。ハリエットちゃんは向こう側へ渡った。


「大丈夫です」


 次は、オーレリアちゃんだった。オーレリアちゃんは手帳を抱えたまま切れ目を見る。


「手帳は」


 ロイさんが言った。


「持っていくのよぅ」


「両手を空けた方がいい」


「……分かっているのよぅ」


 オーレリアちゃんは不満そうに、手帳をヴァンさんに渡した。


「ん。預かる」


 頷くと、オーレリアちゃんは前に出た。一度だけ深く息を吸う。そして、跳んだ。高くはない。綺麗でもない。けれど、ちゃんと前へ跳んだ。ロープが張る。ロイさんが引く。ハリスさんが支える。オーレリアちゃんの足が向こう側の端に当たり、少し滑る。


「オリィ!」


 ロイさんの腕が、オーレリアちゃんを抱き留めた。オーレリアちゃんはロイさんの服を掴んだまま、しばらく動かなかった。そっか、そういう時は、オリィって呼ぶんだ。ちょっと羨ましくなった。


「大丈夫か」


「全然平気、ロイ様は大げさなのよぅ」


 次は、わたしだった。


「……はい」


 誰にも呼ばれていないのに、返事をしてしまった。足が動かない。見なければいいのに、見てしまう。下がある。高さがある。落ちたら助からない。考えるほど、体が固まっていく。向こう側で、ハリスさんがロープを引いた。


「ミコトさん、少し前へ」


「はい」


 声が少し裏返った。向こう側で、ハリエットちゃんが手を伸ばしている。ロイさんも、オーレリアちゃんも見ている。ハリスさんはロープを握っていた。こちら側には、ヴァンさんがいる。背中を見られている。


「ミコト」


 ヴァンさんが言った。


「下を見るな」


「見てません」


「見てる」


「……はい」


 見ていた。すごく見ていた。


「前だけ見ろ」


 前。向こう側。ハリエットちゃんの手。そこだけを見ればいい。分かっている。分かっているのに、足が動かない。わたしは、運動が得意ではない。跳ぶのも得意ではない。体力も筋力も瞬発力もない。さっきだって、ほとんど引きずり上げてもらった。そんなわたしが、四階分の高さの上で、通路の切れ目を跳ぼうとしている。どう考えても向いていない。


「ミコト」


 ヴァンさんの声は短かった。


「跳べ」


 それだけだった。大丈夫だとも、怖くないとも言わなかった。跳べるとも言ってくれなかった。


 跳べ。


 ただ、それだけ。わたしは、ハリエットちゃんの手を見た。落ちたら助からない。でも、落ちないようにしてくれている人達がいる。跳べる跳べないじゃない。跳ぶしかない。当たり前の事だ。ヴァンさんは、いつも当たり前のことを、当然のように言う。それがすごい。やっぱり跳ぶしかない。跳ぶしかないかぁ。わたしは覚悟を決めた。


「……ミコト、行きます」


 床を蹴る。跳んだ。下が、視界の端に入った。でも見ない。見たくない。足が空中に浮く。体が前へ進む。届かないかもしれないと思った。次の瞬間、腰のロープが引かれる。


「ミコトさん!」


 ハリエットちゃんの手が、わたしの手を掴んだ。ロイさんの腕が、わたしの肩を支える。膝が向こう側の床にぶつかった。


「っ」


 痛い。でも、床だった。わたしは床にしがみついた。相当みっともない気がした。


「着いた……」


 それだけ言うと、力が抜けた。


「大丈夫?」


 ハリエットちゃんが聞く。


「はい。たぶん。膝は、あとで痛くなると思います」


「今は痛くないの?」


「今は、怖い方が勝ってます」


 ハリエットちゃんが小さく笑った。最後に、ヴァンさんが残った。オーレリアちゃんの大きな手帳を抱えている。ヴァンさんは、切れ目の手前に立つ。距離を見る。足場を見る。下も見る。上も見る。きっと色々と何かわたしの分からないところまで見て、考えている。


「ヴァンさ…」


 わたしが呼び終える前に、ヴァンさんは跳んでいた。速かった。一歩で床を蹴って、体が空中を渡る。ロープが張るより先に、ヴァンさんの足は、こちら側の床を捉えていた。片手を床につき、そのまま立ち上がる。


「……すごい」


 思わず言ってしまった。ヴァンさんは少しだけ首をかしげた。


「跳んだ。それだけ」


 それがすごいのだと思ったけれど、言ってもたぶん伝わらない。ヴァンさんは、預かっていた手帳をオーレリアちゃんへ返した。オーレリアちゃんはそれを受け取ると、すぐ胸元へ抱えた。


 全員が、切れ目を渡った。でも、通路はまだ続いていた。古い石の壁。細い床。低い天井。窓はない。空気は重い。石の匂いに、何か古い紙の匂いが混ざっている。わたし達は、ロープを結んだまま進んだ。誰も、もう軽口を叩かなかった。また、先頭のロイさんが止まった。


「またか」


 前を見る。通路が、また途切れていた。今度は、さっきよりずっと長い。向こう側の床は見える。けれど、遠い。勢いをつければ届くかもしれない、という距離ではなかった。人が跳んで渡れる距離ではない。


「無理だ。オレでも届かない」


 ロイさんが言った。ヴァンさんも、無言で切れ目を見ていた。


「ヴァンさんは」


 聞きかけて、途中で止まった。ヴァンさんは首を横に振った。


「これは無理だ」


 ハリスさんがしゃがんで、切れ目を睨む。ロイさんでも無理。ヴァンさんでも無理。なら、誰にも跳んで渡るのは無理だ。ハリエットちゃんは黙ってロープを握り直した。オーレリアちゃんは、手帳に何か書き込んでいる。


 皆が沈黙している中で、ハリスさんが、床の端を指先でこすった。古い石の欠けたところから、白っぽい粉が少し落ちる。


 落ちるはずだった。


 けれど、その一部が、何もない空中で止まった。


「あれ? 今……」


 わたしが言うと、ハリスさんがすぐにその場所を見た。ヴァンさんも目を細める。白い粒が、何もないはずの空中に乗っている。


「ロイ、石を少し削れるか」


「できる」


 ロイさんが壁の欠けたところを刃で削った。白い粉が落ちる。ハリスさんはそれを受け取ると、切れ目の上へそっと撒いた。粉のいくつかが、空中で止まった。点々と、何もない場所に並んでいる。


「道、なのよぅ?」


 オーレリアちゃんが小さく言った。


「たぶん」


 ハリスさんはそれ以上、説明しなかった。見えない道がある。今は、それで十分だった。


「先頭はそのままロイ。粉を撒きながら進め」


「分かった」


 ロイさんは粉を受け取ると、切れ目の前に立った。少しずつ粉を撒く。白い点が空中に止まる。その上へ足を置く。落ちなかった。小さく、床を踏む音がした。ロイさんはそのまま、一歩ずつ進んだ。粉を撒き、点を見て、足を置く。見えないだけで、そこには道があった。ロイさんが向こう側へ着くと、ロープを引いた。


「来い」


 次にハリスさんが渡った。続いて、ハリエットちゃん、オーレリアちゃん。みんな、粉の点だけを見て進んだ。わたしの番になった。下は見ない。粉だけを見る。


 そう決めたのに、足はなかなか前に出なかった。何もない空中に足を出すようにしか見えない。でも、白い点はそこにある。そこに道がある。


「ミコトさん、大丈夫です」


 向こう側から、ハリエットちゃんが手を伸ばした。


「粉だけ見てください」


「はい」


 白い点を見る。その下は見えていても意識しない。足を出す。床があった。ちょっと安心する。次の点を見る。また足を出す。床があった。ちょっと安心する。それだけを繰り返した。最後の一歩で、ハリエットちゃんの手を掴んだ。引かれて、見える床の上に立つ。


「渡れた……」


「はい。渡れました」


 ハリエットちゃんが小さく頷いた。最後に、ヴァンさんが渡った。粉の跡を確かめるように、一歩ずつ、音も立てずに進んでくる。全員が、二つ目の切れ目を越えた。


 そこから先は、空気が変わった。通路は少し広くなり、壁の石も古くなったように見えた。ところどころに、削れた模様がある。星の形にも見えるし、ただの傷にも見える。階段と通路、そしてまた階段と通路を奥へ進む。ロープはまだ外さない。


 いくつかの短い通路と階段を越えた先、最後の階段を登りきると、扉のない部屋に出た。塔の最上階にある、広い部屋だった。周囲の壁に窓は無かった。天井は高く、硝子張りの天窓があった。太い梁が渡っている。その間に、大きな円形の枠があった。たぶん、開く仕組みになっている。けれど今は、ぴったりと閉じていた。金具も、硬く噛み合ったまま動きそうにない。雨が漏れてきた様子はなかった。


 そこから星明かりが差し込んでいて、部屋の中はぼんやりと明るかった。部屋の中央には、梯子のような、柱のような、二本の高い支え台が残っていた。ただの台座ではなかった。床から高く立ち上がり、上の方には太い梁が渡っている。ところどころに古い金具の跡があった。昔は、そこに何か長くて大きなものが斜めに置かれていたのだと思う。


「望遠鏡か」


 ハリスさんが小さく言いながら、ロープを外す。皆も続いた。


「大型のものだったみたいなのよぅ」


 オーレリアちゃんが周りを見た。肝心の望遠鏡は、どこにもなかった。壁際には棚があった。けれど、中は全て空っぽだった。昔は記録や星図のようなものが収められていたのかもしれない。でも、今は何も残っていない。

 

 床に染みはない。埃は、古いまま静かに積もっている。長い間、誰も来ていない場所に見えた。けれど、部屋の奥だけが違った。二本の支え台から少し外れた、傍らの床。そこに、一冊の本が置かれていた。床に、直接。古い本だった。表紙は黒ずんでいて、題名は読めない。金具は錆び、角は擦り切れている。けれど、その本だけ、埃をかぶっていなかった。まるで、誰かがさっきそこに置いたみたいに。でも、そんなはずはない。ここまでの道は、誰かが簡単に来られる場所ではなかった。


 ヴァンさんが、皆より一歩前に出る。ハリエットちゃんが、すぐに言った。


「それに触らないで」

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