第二十七話 扉の向こう
「先に行く」
ヴァンさんは違った。
鍵を取れたのだから、皆と合流して、それから一緒に行くのだと思っていた。
「え?」
「ミコトは待ってて」
そう言われた時、わたしは少しだけ黙ってしまった。待っている方が、たぶん正しい。ハリスさんも、ハリエットちゃんも、オーレリアちゃんも、ロイさんも、ローティさんも、まだ来ていない。皆が揃ってから行く方が安全だし、わたしが探索のオトモに加わったところで、大して何か役に立てるとは思えない。でも、開かずの間を開けると言ったのは、わたしだった。
「行きます」
声が少し固くなった。
ヴァンさんがこちらを見る。
「危ないかもしれない」
「だから、行きます」
怖くないわけじゃない。むしろ怖い。胸の奥はずっと落ち着かないし、フェルトンさんの言った「残っている」も、まだ頭の中に残っている。出来ることなら、誰かの後ろに隠れていたい。手を繋いでください、なんて言えたら、少しはましだったかもしれない。でも、そんなことは言えなかった。足手まといになりたくなかった。
ヴァンさんは少しだけ黙って、それから歩き出した。
「なら、後ろ」
「はい」
旧塔へ続く扉の前は、昼間よりも暗く見えた。鍵を差し込む音がやけに大きい。古い扉が、重たく鳴って開く。中から、ひんやりした空気が流れてきた。上へ上へと、螺旋階段が続いていた。手摺はない。石の段は細く、壁に沿ってぐるりと回りながら上へ伸びている。見上げても、暗くてどこまで続いているのか分からない。
「気をつけろ」
「はい」
そう答えた次の瞬間、ヴァンさんの手が、わたしの手を取った。
え。
声が出そうになって、出なかった。手だ。手を繋がれている。これは、つまり、手を繋いでいるということで、いや、違う、今はそういうことを考えている場合ではなくて、階段が暗いし、手摺もないし、落ちたら危ないからで、たぶんそれだけで、ヴァンさんは何も変な意味ではしていないし、わたしも変な意味で受け取るべきではないのだけれど、それでも手は手で、さっき外套入れの戸棚で支えられた腕のことを思い出してしまって、ああもう駄目だ、今日は本当に駄目だと思った。
「落ちたら危ない」
ヴァンさんが言った。
「……はい」
やっぱり、そういう理由だった。分かっていた。分かっていたのに、少しだけ残念だと思ってしまった自分がいて、それにもまたびっくりした。
「えー!?」
下から声がした。
振り返ると、やっと課題から解放されたのか、ローティさんが階段の入口に立っていた。
「なに!? なにそれ!? お前ら、何してんの!?」
「登ってる」
ヴァンさんは普通に答えた。
「見りゃ分かるよ! そうじゃなくて!」
「手摺がない」
「だから手ぇ繋いでるって? えー!?」
ローティさんが一人でわちゃわちゃしている横を、ハリスさんとハリエットちゃんが追いついてきた。
「騒ぐな。響く」
「いや、だってさ!」
「落ちたら危ないんだ。当然だろ」
「そうね。ハリス」
ハリスさんはそう言って、自然に姉の手を取った。ハリエットちゃんも、少しも驚かずに弟の手を握る。自然だった。とても自然だった。
「え、待って」
ローティさんの声が少し弱くなった。
「おれだけ一人かよ……」
「ローティ君」
後ろからオーレリアちゃんの声がした。
「!? あ、危ないから、手つなごうか?」
ローティさんの顔が明るくなった。
「ん、間に合ってるわよぅ?」
その後ろから、ロイさんが顔を出した。
「オーレリア、足元に気をつけて」
「もちろんよぅ」
ローティさんの顔が止まった。
「……だよね。そりゃ、いるよな」
「いるとも」
ロイさんは胸を張った。ローティさんは何か言いたそうに口を開けて、結局何も言わなかった。わたしは、少し笑いそうになってしまった。怖い場所へ向かっているはずなのに、皆がいると、少しだけ空気が違う。けれど、階段を一段上るたびに、冷たい空気は濃くなっていった。
「この塔のことだけど」
オーレリアちゃんが、階段を上りながら言った。
「さっき、ジークハルト先生から少し聞けたのよぅ」
「何だって?」
ローティさんが最後尾をトボトボ歩きながら聞く。
「この塔、今の校舎よりずっと古いんだって。建国の頃からあるそうだから、だいたい千年くらい前の塔なのよぅ」
「千年?」
「ええ。学院は八百年くらい前に出来たから、先にこの塔があって、その後に学院の校舎が増築されて、今の形になったみたいなのよぅ」
オーレリアちゃんの声は、少し得意そうだった。さっき聞いてきたばかりの話を、もう自分の記録に入れ終わったみたいに話している。
「昔は星見の塔だったそうよぅ。天文学の授業で使われていたんだって」
「星見」
ハリエットちゃんが小さく繰り返した。
「じゃあ、上に星を見る場所があるのかな」
「たぶんあると思うのよぅ。でも今は使われていないんだって。古い塔だから危ないんじゃないかって、ジークハルト先生は言っていたのよぅ」
「危ないなら、入るなって話だよな。でも、それなら学院だって相当に古いじゃん」
ローティさんが言った。
「それは今さらだ」
ハリスさんが返す。階段はまだ続いている。同じような石の段が、ぐるぐると上へ伸びている。外の音はもう聞こえない。自分達の足音と、誰かの息づかいだけが、狭い塔の中に反響していた。
この塔の先には何があるのだろう。
女神様は、開けて、と言った。フェルトンさんは、嫌だと言った。わたしは怖い。怖いのに、手を引かれていると、進めてしまう。ヴァンさんの手は温かくて、力を入れすぎず、でも離れないように握ってくれている。落ちたら危ないから。それだけだ。分かっている。それだけなのに、その理由がある限り、この手を離さなくていいのだと思ってしまう自分がいて、また少し困った。
その時、かちり、と音がした。
小さな音だった。
でも、全員が止まった。
「今の」
ハリスさんが言いかけた瞬間、足元の石段が動いた。
石が、傾いて沈む。
次の段も、その次の段も、波のように形を変えた。
「え」
階段だったはずの場所が、つるりと滑らかな斜面になっていく。
滑り台。
そう思った時には、もう足が滑っていた。
「ミコト!」
ヴァンさんの手に力が入った。
けれど、足元は止まらない。
背後でローティさんが叫んだ。
「うわああああ!?」




