第二十六話 鍵の在処
夕食後の校舎は、昼間よりも少しだけ広く感じた。
廊下の明かりは灯っているのに、人の声が減るだけで、同じ場所が違うものみたいになる。昼間なら誰かが走っていて、先生に叱られて、扉の向こうから授業の声が聞こえてくるのに、今は自分達の靴音ばかりがやけに大きく聞こえた。
わたしは、ヴァンさんの後ろを歩いていた。本当は、ここにいるのはローティさんの予定だった。ヴァンさんが鍵を取りに行く。ハリスさんが見張る。ローティさんが手伝う。そういう話だったのに、ローティさんは夕食の直後、課題を忘れていたことが発覚して、先生に捕まった。
「忘れたお前が悪い」
ハリスさんは冷静だった。オーレリアちゃんは先生方の足止め、ハリエットちゃんは応接室からの連絡、ハリスさんは廊下の見張り。そうなると、ヴァンさんについて中へ入れるのは、わたししか残っていなかった。
校長室へ忍び込む。
普通に考えたら、してはいけないことだ。けれど、開かずの間を開けるには鍵がいる。鍵は職員室か校長室にある可能性が高い。ハリスさんはそう判断した。アンディアナ校長先生は今、応接室にいる。そこではオーレリアちゃんが、先生方に突撃インタビューをしているはずだった。学院の歴史、開かずの塔、昔の校舎、使われなくなった部屋。記録係として真面目に聞く形を取れば、オーレリアちゃんはかなり手強い。断られても、もう一つだけ、ちょっと確認だけ、と粘れる。
しかも今回は、オーレリアちゃんが両方へ別々に話を通していた。面食いの校長先生には、軍服姿が恰好良いジークハルト先生も同席してくださると伝え、ジークハルト先生には、上司である校長先生も承諾されていると伝える。たぶん、どちらも途中で断る暇を与えないまま押し切ったのだと思う。結果として、校長先生は快諾して下さり、同時に、夜の見回りをしているはずだったジークハルト先生まで、そちらへ釘付けになった。
その様子は、同席しているハリエットちゃんが伝声術でハリスさんへ知らせてくれる。わたし達は、その間に校長室へ入る。
「ミコト」
ヴァンさんが小さく呼んだ。
「はい」
「ここから、声小さく」
わたしは頷いた。廊下の角を曲がると、校長室の扉が見えた。重そうな扉だった。昼間なら何でもない扉なのに、今はそれだけで胸が鳴る。ヴァンさんは扉の前にしゃがんだ。そして、あっさり鍵穴へ細い道具を入れた。
「……え」
思わず声が漏れかけて、慌てて口を押さえる。ヴァンさんはこちらを見なかった。手元だけを見ている。呼吸も変わらない。まるで靴の紐をほどいているだけみたいだった。
かちり、と小さな音がした。
「開いた」
「すごいですね」
「これ、古いから」
それだけ言って、ヴァンさんは扉を開けて、一瞬のためらいもなく、ささっと部屋に入った。
校長室の中は、思っていたよりも綺麗だった。机の上には書類が整えられていて、棚には本と箱が並んでいる。壁には学院の紋章が掛かり、窓際には大きな観葉植物が置かれていた。壁際には外套入れらしい背の高い戸棚もある。
「たぶん、あれ」
ヴァンさんが言う。
その鍵箱にも鍵がかかっていた。ただ、鍵穴ではなく、三つの小さな数字を合わせる仕組みだった。
「番号式……」
わたしは小さく呟いた。
「三桁」
ヴァンさんが指で数字を動かす。
「総当たりなら、千通り?」
「そう」
「時間、かかりますよね」
「かかる。でも全部はやらない」
「え?」
「よく使う数字は、少し緩い」
ヴァンさんの手は止まらない。数字をただ順番に回しているのではなく、指先で少しずつ確かめているようだった。動きの軽い数字、引っかかる数字、よく触られている数字。わたしには違いが分からないのに、ヴァンさんは何かを読んでいるみたいだった。
その時だった。
「わん」
部屋の隅から声がした。わたしは固まった。
机の下から、小さな犬が出てきた。ふわふわの毛。しかも桃色。きれいに整えられた毛が、夕方の明かりを受けて妙に輝いている。その犬は、わたし達を見た。
「わんっ」
「ぷーちゃん」
ヴァンさんが言った。校長先生が秘密で飼っているという、噂の犬だ。ぷーちゃんは尻尾を振っていた。完全に遊んでほしそうだった。
「わんっ、わんっ」
「しっ」
わたしは指を唇に当てたけれど、ぷーちゃんは止まらない。むしろ、こちらへ来た。ふわふわの桃色の塊が、楽しそうに跳ねる。
ヴァンさんは周囲を見た。机の横に、小さな骨の形をした玩具があった。
「ハリス」
ヴァンさんが廊下側へ低く呼ぶ。扉の隙間から、ハリスさんの声が返った。
「何?」
「犬」
「犬?」
「行くぞ」
ヴァンさんは骨の玩具を拾い、廊下へ軽く投げた。ぷーちゃんが猛然と走った。
「わんっ」
「頼む」
「何を――」
扉の向こうで、ハリスさんの声が途切れた。多分、ぷーちゃんを受け止めたのだと思う。ヴァンさんは何事もなかったように鍵箱へ戻った。ちょっと面白かった。
「続き」
「今の、無茶ぶりでは」
「ハリスならやる」
確かにやりそうだった。けれど、廊下の方では、少しだけ騒ぎになっている気配がした。ハリスさんの低い声。そんな騒ぎには一向に構わず、ヴァンさんの手は止まらない。鍵の番号を乱暴に回しているのではなく、指先で少しずつ手応えを確かめている。どこが軽くて、どこが引っかかるのか、やはりヴァンさんには何かが読めているみたいだった。わたしは、その真剣な横顔を何となく眺めていた。
「やばい、来るぞ。隠れろ」
突然、ハリスさんの声がした。それから、遠くで扉が開く音。わたしの胸が跳ねた。しばらくして、足音が近づいてくる。でも、ヴァンさんは、まだ鍵開けを止めない。
「ぷーちゃん?」
女の人の声だった。上品で、少し芝居がかった声。
「ぷーちゃん、どこざます?」
校長先生だ。ヴァンさんは、まだ続けている。わたしは、オロオロと狼狽えて、扉の方ばかり気にしていた。ふと手首を掴まれた。ドキッとした。ヴァンさんが、わたしを引っ張る。
「こっち」
「えっ」
引かれるまま、壁際の外套入れの戸棚へ入った。その扉が閉まる直前、校長室の扉が開く音がした。間一髪だ。
暗くなると同時に、その狭さが一気に分かった。背中に冷たい板が当たっている。目の前にヴァンさんがいる。肩が触れている。腕も、たぶん触れている。足の置き場がなくて、変に体を傾けたら、余計に近くなった。
声を出してはいけない。動いてもいけない。それは分かっているのに、手に変な汗が滲んできた。足が少し震える。力を入れようとすると、かえって膝が頼りなくなる。
やばい。滑りそう。
そう思った瞬間、体が傾いた。ヴァンさんの腕が動いた。
ぐっ、と支えられる。声が出そうになった。
慌てて、唇を噛む。ヴァンさんの腕が、わたしの体を支えている。落ちないように。音を立てないように。強く、でも痛くないように。
これはやばい。
顔が近いというか近すぎて、いや仕方ない、この戸棚が狭いからだし、見つかったら終わりだからこうなるのは当然なのに、それでも近いと分かってしまうと余計に意識してしまうし、しかも体が傾いた瞬間にヴァンさんの腕がぐっと動いて支えられて、あ、と思った時にはもう遅かった。腕、強い。細いと思っていたのにちゃんと力があって、でも苦しくないように支えてくれているのも分かるし、音を立てないように押さえてくれているのも分かるし、痛くないように力を加減しているのまで分かってしまって、そんなの分からなくていいのに近いせいで全部伝わって来るし、扉の隙間から入る細い明かりのせいで、暗いのに鼻筋とか睫毛の影とかまで見えてしまう距離で、うわ、どうしよう、どこを見ればいいんだろうって頭の中がぐちゃぐちゃになる。校長先生がすぐ外にいて、見つかったら終わりで、開かずの間の鍵を探している途中で、今そんなこと考えている場合じゃないのに、なのにわたしはヴァンさんの腕のことを考えていて、息が近いことを気にしていて、さっき手首を掴まれた感覚までまだ残っていて、怖いのに少し安心してしまっている自分がいて、いや待って、何それ、どうしてこんなに落ち着かないの、怖いからだけじゃない気がする、だって今わたし校長先生よりヴァンさんのこと意識してる、それって、もう、かなり駄目なのでは。
もしも今が声を出せる状況だったら、きっと変なことを言っていた。自分でもよく分からない失言と失態を連発していたに違いない。わたしは煮詰まった挙げ句、ありがとう、と口だけで動かした。
ヴァンさんは、少しだけこちらを見たが、すぐに視線を逸らした。わたしの変な顔を見ないでくれる優しさが、今は痛いけどありがたい。
戸棚の外で、校長先生の靴音が鳴る。
「おかしいざますわね……確かに、ぷーちゃんの声がしたと思いましたのに」
校長先生が部屋の中を歩く。机の近く。棚の前。鍵箱のあたり。
見つかったら終わりだ。
そう思うのに、わたしの頭は半分くらい、まだヴァンさんの近さで埋まっていた。駄目だ。今それどころじゃない。そう思っても、肩が触れていることが分かる。腕に支えられていることが分かる。ヴァンさんがわずかに動くたび、こちらの心臓まで動く。とにかく、ドキドキが止まらない。
廊下の方で、ぷーちゃんが鳴いた。
「わんっ」
「まあ、ぷーちゃん!」
校長先生の声がぱっと明るくなった。
足音が遠ざかる。
扉が開いた。
「校長先生」
ハリスさんの声がした。
「この犬を発見しました。保護をお願いします」
「ほ、保護?」
「はい。どこから来たのでしょう。随分、手入れされていますね」
「ええ、まあ、その……」
「毛色が染められています。首輪もあります。迷い犬というより、飼い犬に見えます」
「そ、それは……」
「校舎内で犬が迷っていると問題になります。先生方にお預けするのが適切だと判断しました」
ハリスさんの声は、いつも通り淡々としていたが、すごく、白々しい。
校長先生は咳払いをした。
「そ、そうですわね。大変よろしい判断ですこと。こちらで、責任を持って保護いたしますわ」
「お願いします。では、どこへ運びましょうか? 先ずは職員室ですね」
「ちょ、待っ…」
「何か不都合でも?」
「な、…なんでもないざます」
「はい。では参りましょう」
ハリスさんが校長先生を遠ざけてくれた。ヴァンさんが、そっと戸棚の扉を押した。隙間から校長室の中を確認する。誰もいない。わたし達は、そろそろと戸棚から出た。その瞬間、足から力が抜けそうになった。
はぁ、と息が漏れた。
ヴァンさんの腕が、まだわたしを支えている。こわかった。もう駄目かと思った。けれど、それを声に出す前に、ヴァンさんの手が離れる。
「……ごめん、ミコト」
小さな声だった。わたしは首を振った。
「いえ。ありがとうございました。ヴァンさんのおかげで助かりました」
言ってから、少しだけ視線を落とす。
「腕、辛かったでしょう」
「別に」
ヴァンさんは答えた。そして、逆の手を持ち上げて見せた。その手には、鍵束があった。
え。鍵、取れてる。いつの間に。
いや、鍵というより、鍵束だった。大小いくつもの鍵が輪に通されていて、どれが開かずの間の鍵なのか、わたしにはまったく分からない。でも、今ここで一本ずつ確かめている時間なんてなかったのだと思う。わたしは、それを見た瞬間、思わず口が開いた。不覚。またしても間抜けな顔を晒してしまったかも知れない。
「行くぞ」
ヴァンさんが言った。わたしは口を閉じて頷いた。校長室を出る時、廊下の向こうで校長先生の声が聞こえた。
「ぷーちゃん、どうして出てしまったざますの。駄目でしょう、もう」
「校長先生、ぷーちゃんとは?」
ハリスさんの声。
「こ、この子の名前ざます」
「今、名付けたんですか?」
「そうざます。今ここで名付けましたわ。いい名前でしょう?」
「ぐるる…」
「気に入ってないみたいですが?」
わたしは笑いそうになって、慌てて口を押さえた。
ヴァンさんは表情を変えなかった。
けれど、その指はもう、鍵束の中から正解の鍵を探し始めていた。




