第二十五話 開かずの間
夕方の湖は赤かった。とても赤かった。
昼間ならキレイだと思えたかもしれない。水面に夕日が広がって、風が吹くたびに細かくほどけて、赤い光がきらきら揺れている。けれど、わたしはその色を見ていると、胸の奥が少しずつ重くなっていくのが分かった。
あの日は朝だったけれど、水の中に沈んだあの日のこと、あの色を思い出してしまう。冷たい水の中で、どちらが上か分からなくなった。息をしたくても出来なくて、手を伸ばしても何にも届かなくて、自分の体が自分のものではなくなっていくような感じがした。みんなにとっては、ここは単に事故のあった場所なのだと思う。けれど、わたしには心細くなる場所、まだ水の冷たさが戻ってくる場所だった。
その桟橋の先に、フェルトンさんがいた。
湖を見ている。けれど、ただ見ているのとは少し違う気がした。眺めているのではなく、睨んでいる。怒っているようにも見える。でも、怒っているだけの人は、あんなふうに動かず立っていられるのだろうかと思った。
「最近あいつ、よくここにいる」
ローティさんが言った。
わざわざここに来ているのに、フェルトンさんは少しもここにいたそうに見えなかった。嫌なら来なければいいのに、と思いかけて、わたしは何も言わなかった。嫌なのについつい見てしまう場所は、たぶんある。
ヴァンさんとハリスさんとローティさんが先に桟橋へ進んだ。わたしは少し後ろからついていく。板がぎし、と鳴る。湖の上を渡る風が、制服の裾を揺らした。
「フェルトン」
「……何だ」
返事は早かった。でも、フェルトンさんは湖から目を離さなかった。
「聞きたいことがある」
「断る」
「まだ何も言ってねえだろ」
ローティさんが顔をしかめる。
「お前達と話すことは無い」
フェルトンさんがようやく振り返った。
口はきつい。顎も上がっている。人を見下すことに慣れている顔だった。オーレリアちゃんから、ブラスシルド家は三大貴族だと聞いたことがある。フェルトンさんは、それを傘に着ている。わたしにも分かるくらい、分かりやすく、偉そうにしている。けれど、わたしはその顔だけを見ていることが出来なかった。さっきまで湖を睨んでいた横顔が、頭の中に残っていたからだ。
「開かずの間のことだ」
ハリスさんの聞き方は冷静だった。
「知らん」
早すぎる、と思った。
本当に知らない人の早さじゃない気がした。知らないなら、何の話だと聞き返してもいい。何故そんなことを聞くのかと怒ってもいい。けれど、フェルトンさんは、まるでその言葉を聞きたくなかったみたいに、すぐに切った。
「前、扉の前にいたろ。それに、ここも気にしてる」
ローティさんが言った。
「何かあるのか? 知ってることがあるなら教えろ」
ローティさんは悪気なく踏み込む。たぶん、本当に知りたいだけなのだと思う。でも、その言い方を聞いた瞬間、フェルトンさんの目つきが変わった。
「命令するな」
声が低い。
「誰にものを言っている」
「そういう話じゃない」
ハリスさんが言う。
「お前が何か知ってるなら、聞きたいだけだ」
「知っている? 僕が? お前達ごときに話すことを?」
フェルトンさんは鼻で笑った。
けれど、見ているうちに、少し変な感じがした。フェルトンさんは、扉みたいだった。開けてはいけないと自分で決めて、鍵を掛けて、その前に立っている。外から叩くと、余計に閉まる。
偉そうにしている時の方が、むしろ安心しているように見える。
家の名前を出せる時、人を見下せる時、誰かを遠ざけられる時、フェルトンさんは形を保っている。でも、湖や開かずの間の話になると、その形が少し崩れる。言葉より先に、目が揺れる。肩が固くなる。袖を掴む指に力が入る。
怒っているだけじゃない。
何かを怖がっているように見えた。
「フェルトンさん」
気付いたら、わたしは声を出していた。
フェルトンさんがこちらを見る。
「……何だ。和之国の留学生」
わたしは、うまく言えなかった。
わたしも怖かったです、と言えばいいのかもしれない。でも、それでは軽すぎる気がした。わたしの怖さと、フェルトンさんの嫌悪感を、同じものだと決め付けてしまうみたいだった。けれど何も言わなければ、この人はずっと閉じたままなのだと思った。
「わたし、ここで溺れました」
「知っている」
「だから、ここを見ると、少し苦しくなります」
「一緒にするな」
すぐに返ってきた。
でも、その声はさっきより小さかった。怒らせたのか、届いたのか、わたしには分からなかった。ただ、まったく届かなかった声ではない気がした。
「フェルトン君」
ハリエットちゃんの声がした。その声で、空気が少し変わった。わたしでは開かなかったところに、手が掛かった気がした。フェルトンさんの目が、ハリエットちゃんを見る。わたしを見る目とも、男子達を見る目とも違う。そこに線があるのが分かった。ハリエットちゃんが九大貴族の家名を持つ女の子だからなのだと、たぶんそういうことなのだと思う。
「……お前まで来たのか」
「はい。少しだけ、お話を聞かせてください」
「別に、何も知らん」
「知っていることではなくてもいいです」
ハリエットちゃんは責めなかった。無理に扉を開けようとしていない。ただ、扉の前に立っている。
「嫌なら、嫌でいいんです。どう嫌なのかを、教えてほしいんです」
フェルトンさんは黙った。
風が吹いて、湖の赤が揺れる。桟橋の板が小さく鳴った。
「……開かずの間」
フェルトンさんが低く言った。
「あそこは嫌だ」
ほんの少しだ。
でも、閉じていたものが少しだけ動いた感じがした。
「何があるんだ?」
ハリスさんが聞く。
「知らん。答えを知っていたら、とっくに言っている」
フェルトンさんは苛立っていた。けれど、その苛立ちは、わたし達だけに向いているようには見えなかった。説明できない自分にも腹を立てているように見える。
「ただ、嫌なんだ」
嫌。
その言葉だけが本当っぽかった。他の言葉より、ずっと裸に聞こえた。
「湖も同じだ」
背中が冷える。
わたしが怖いのは、溺れたからだ。でも、フェルトンさんの嫌悪は、それだけではない。
「事故があったからじゃない。そんなのは誰でも知っている」
フェルトンさんは湖を睨んだ。
「残ってるんだよ」
残っている。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。水の底に、まだ何かが沈んでいるみたいだった。沈んだものが、ずっとそこにあって、見えないだけで、消えてはいないみたいだった。
わたしも、何かを残してきたのだろうか。
考えかけて、胸の奥が嫌なふうに縮んだ。フェルトンさんの言った「残ってる」は、たぶん、わたしのそれとは違う。違うはずだ。それなのに、嫌な場所を、ついつい見てしまう感じだけは、少しだけ分かってしまう気がした。
けれど、分かった気になってはいけない。この場所で何が残っているのか、フェルトンさんも知らない。わたしも知らない。急いだ方がいい。前にも、そう思った。でも、急いでいるからこそ、間違えられなかった。怖いから走るのと、必要だから急ぐのは違う。何かがあると思うだけで扉を開けて、もし違っていたら。もし、もっと悪いことになったら。
「何が?」
ローティさんが聞いた。
「知らんと言っているだろ」
フェルトンさんは吐き捨てた。
「だが、碌なものじゃない」
言ってから、フェルトンさんはすぐに後悔したような顔になった。自分で開けた扉を、自分で閉め直すみたいだった。フェルトンさんは歩き出した。去り際、ローティさんの肩にぶつかる。
「うおっ」
「邪魔だ。どけ」
フェルトンさんは振り返らなかった。
残されたわたし達の間に、しばらく水の音だけが残った。
「湖と開かずの間」
ハリスさんが言った。
「同じ種類の何かがある、ってことか?」
ローティさんが肩をさすりながら言う。
開かずの間が怪しいと思う。けれど、それはわたしが勝手にそう思っているだけなのかもしれない。フェルトンさんの言葉に引っ張られて、あの日の湖を思い出して、怖い方へ考えているだけなのかもしれない。だから、わたしは心の中で女神様に尋ねた。
開かずの間が怪しいと思うのです。
でも、答えはなかった。風が吹く。湖が揺れる。わたしの胸の奥で、何かが焦れていく。
教えて。
『……開けて』
聞こえた。
耳ではない。けれど、確かに聞こえた。
息を吸う。
「開かずの間」
声が震えないようにした。でも、自分でも驚くくらい、はっきり出た。
「多分、あそこに何かあります」
ハリスさんが頷いた。
「本格的に調べるか」
「でも、入れねえぞ」
ローティさんが言う。
「鍵、掛かってるし」
「鍵がいる」
ハリスさんが言った。
少し、沈黙が落ちた。
わたしはヴァンさんを見た。みんなが逡巡して、迷う中で、ヴァンさんの目には何も迷いがないように見えた。
「おれが取ってくる」




