第二十一話 爺ちゃん
次の朝、木の棒は戸口の横に立てかけられたままだった。
ヴァンは、それを見ないようにした。
手のひらはまだ痛い。腕も足も、昨日のままだった。立っていただけなのに、身体のあちこちが重く、椀を持つ手にも力が入りにくい。
じいちゃんは何も言わなかった。
火を起こし、水を汲み、薪を割る。斧が振り下ろされるたび、太い薪がぱかんと割れた。腕も肩も、いつも通り大きい。袖の下で筋が動くたび、ヴァンは粥を食べながら、つい目で追ってしまう。
昨日、もうやめたいと言った。
じいちゃんは、そうか、とだけ言った。
怒らなかった。
続けろとも言わなかった。
やめるなとも言わなかった。
それが、少しだけ嫌だった。
「山へ行くぞ」
「……うん」
ヴァンは椀を置いて、じいちゃんの後ろを追った。
朝の山は、昨日と同じように光っていた。葉の先に水の粒がついて、歩くたびに細かく揺れる。濡れた土は甘いにおいがして、遠くから川の音が聞こえた。
じいちゃんは前を歩く。
大きな背中だった。
昨日、棒を持って立っていた時と同じ背中なのに、山の中では少し違って見える。木の間を進む足は静かで、枝を折らず、葉を鳴らさない。
「あの葉は触るな。かぶれる」
「すげえ」
「この足跡は今朝ついた。鹿が二頭、川へ下りた」
「すげえ」
「あの鳴き方は、近くに巣がある」
「すげえ」
いつもなら、それだけで胸が跳ねた。
山はすごい。川もすごい。
空はすごい。雲もすごい。
鳥も、獣も、じいちゃんも、全部すごい。
けれど、その日は、戸口の横に置いてきた木の棒が、ずっと後ろからついてくるみたいだった。
じいちゃんは、棒の話をしない。
剣の話もしない。
ヴァンが泣いたことにも触れない。
ただ、いつものように山を教える。
昼には川へ下りた。
水は冷たく、石の間を魚の影がすいと抜けていく。日が水面に当たると、きらきら光が割れた。じいちゃんは石の上に腰を下ろし、竿を出す。
「今日は、あそこじゃ」
「どこ?」
「あの影の下じゃ」
ヴァンは目を凝らした。
木の枝が川へ落とす影の中で、小さな光が動いた。
「さかな?」
「そうじゃ」
「すげえ」
糸を垂らし、待つ。
魚はすぐには来ない。
前なら、まだ、と聞いた。
きた、と聞いた。
じいちゃんに、お前が騒ぐからじゃ、と言われた。
けれど、その日はあまり話さなかった。
聞きたいことはあった。
どうして、昨日のじいちゃんは、あんなに怖かったのか。
でも、それを聞くのも怖かった。
竿の先が震えた。
「今じゃ」
じいちゃんの手が重なる。
引くと、水面が跳ね、魚が光を散らして上がった。
「とれた」
「釣れたな」
「すげえ」
「今のは、お前が釣った」
「おれ?」
「そうじゃ」
じいちゃんと一緒に焼いて食べる魚は、やっぱりうまかった。
うまいのに、少しだけ味が遠かった。
夕方、家へ戻った。
戸口の横に、木の棒がある。
朝と同じ場所で、他に誰も動かす者はいない。
じいちゃんは先に中へ入った。火を起こす音がして、鍋の音がした。煙の匂いが、戸口から流れてくる。
ヴァンは、木の棒を前にして止まった。
この時のことは今でも覚えている。
後で知ったことだが、この感覚は、勇気と言うらしい。
ヴァンは、木の棒を両手で持った。
「じいちゃん」
「なんじゃ」
「もういっかい」
火のそばで、じいちゃんが振り返る。
少しだけ黙った。
それから、いつもみたいに言った。
「そうか」
外へ出た。
空は赤く、山の影が長く伸びていた。川の音が遠くで鳴っている。鳥が一羽、木の上から飛び立った。
ヴァンは、昨日じいちゃんに直された形を思い出しながら、棒を両手で持った。
足を踏みながら開く。
腰を緩やかに落とす。
腹は据えながら締める。
顎は引いて軽く噛む。
背中は抜いて伸ばす。
肩は緩めて含む。
肘は寄せて絞る。
握りは力を抜かず入れず。
どれが正しいのかは、まだ分からない。それでも、昨日より少しだけ、同じ形に近づけた気がした。
じいちゃんは何も言わずに見ていた。
それから近づき、腹と肘に触れ、握りを少しだけ直した。
昨日より、直されるところが少なかった。
この形のほうが、より長く立っていられる気がした。
「放すな」
「うん」
「気絶しても放すな」
「うん」
ヴァンは立った。
次の日も立った。
その次の日も立った。
雨の日は軒の下で立ち、風の強い日は山を下りてから立った。川で魚を釣った日も、森で獣の足跡を見た日も、火のそばで肉を食べた日も、ヴァンは木の棒を持った。
もう二度と泣かなかった。
文句も言わなかった。
分からないことは、いくつもあった。
足は痛い。腕は重い。どうして立つだけなのかも分からない。けれど、言われた通りにすると約束した。
だから立ち続けた。
*
それから秋が来て、冬が来て、春が来て、また夏が来た。
ある日、じいちゃんは剣を構えた。
「すすむ?」
「そうじゃ」
「どうやって?」
「わしのように」
じいちゃんが前に進んだ。
ヴァンは見た。
もう一度、じいちゃんが前に進んだ。
ヴァンはじっくり見た。
何度も見る。
何度も、目に焼き付ける。
やがて、じいちゃんの前には、木が立ちはだかった
「じいちゃ……」
それでも前に進んだ。
剣の切っ先が、木の幹へすんなりと入った。
「……っ!?」
樹皮が断たれる。
太い木が割れて、ぱっくりと左右に裂けた。
「すげぇ! いまの、けんのわざ?」
「前に進むだけの単純な技じゃ」
「すげぇ!」
「簡単ではないぞ」
「おれもやる」
「三十年後にはできる」
「冬が三十回?」
「誕生日が三十回じゃ」
ヴァンは指を折ろうとして、途中でやめた。
多すぎた。
でも、じいちゃんができるなら、いつか自分もやる。
ヴァンは木の棒を持って、進んだ。
*
また秋が来て、冬が来て、春が来て、夏が来た。
五つになる頃、ヴァンは爺ちゃんの前で木剣を構えるようになった。
勝てると思ったことは、一度もない。
爺ちゃんは大きい。腕も、肩も、胸も、山の岩みたいに大きい。なのに、木剣を持つと音が消える。足音も、息も、服の擦れる音さえ遠くなる。
───カァンッ!
木剣が弾かれる。
手のひらが熱くなり、指がじんじんして、尻もちをつく。それでも、爺ちゃんは手を差し出さない。
ヴァンが自力で立ち上がるまで、待っている。
「拾え」
「……うん」
「もう一回じゃ」
「うん」
何度も負けた。
痛い。
転ぶ。
弾かれる。
悔しい。
そんなある夜、火のそばで、ヴァンは尋ねた。
「爺ちゃん」
「なんじゃ」
「どうして、剣を学んだの?」
爺ちゃんは火を見ていた。
赤い炎が、大きな手を照らしている。
「それは、話をするためじゃ」
「話?」
「そうじゃ」
「剣で?」
「そうじゃ」
ヴァンは首を傾げた。
ぜんぜん意味が分からなかった。
「どういうこと?」
「その内に分かる」
「今知りたい。どうして、剣で話をするの?」
爺ちゃんは少しだけ笑った。
「それはな──」
その時の、爺ちゃんの目の色も、そこに映った火の色も覚えた。
「仲良くなるためじゃ」
その時の、火の音も、爺ちゃんの声も覚えている。
「剣で斬って殺すのに?」
ヴァンは再び首を傾げた。
「相手を殺さなきゃ勝てんようでは、まだまだ未熟じゃ」
「ミジュクって、たまごみたいな?」
「半熟卵はウマいが、ちょっと違うのう」
「爺ちゃん」
「なんじゃ」
「わかんねぇ」
「そうか」
爺ちゃんは愉快そうに笑った。
火の音も、その時の爺ちゃんの目も、ヴァンは覚えた。
*
その年の秋、とある日、爺ちゃんは鍛錬の時間に本物の剣を持って来た。
魔物を斬ったあの剣だ。
鞘に収まったままなのに、木剣とは違う。そこにあるだけで、空気が少し重くなる。
「刃は、抜いたら本気でやれ」
爺ちゃんが言った。
「本気でないなら、絶対に抜くな」
ヴァンは手元の木剣を見た。
「その木剣は、まだ刃ではない。ただの棒じゃ」
「棒?」
「そうじゃ」
「じゃあ、剣じゃない?」
「剣の話をするための棒じゃ」
ヴァンには分からなかった。
爺ちゃんは拳骨を握って見せた。
「だが、これは刃にもなる」
益々、ヴァンには分からなかった。
「わかんないよ。爺ちゃん」
「まぁ、その内に分かる」
それから、爺ちゃんは構えた。剣を鞘から抜く。
刃が、朝の光を薄く長く返す。
「これからする型を、ようく見ておけ」
「うん」
「だが約束じゃ。人前で絶対に見せるな」
「なんで?」
「家族の秘密、約束じゃ」
「……うん」
爺ちゃんは極端な半身になる。
右手が前へ出る。左手、というよりは心臓を後ろ側へ持っていくような構えだった。
ヴァンには、それ以上の意味は分からない。
ただ、爺ちゃんの足腰が急に山の岩みたいに動かなくなったように見えた。それなのに、肩と腕は風や雲みたいに緩やかになったように見えた。
右手に握った剣の先が動く。
切っ先が胸の前から水平に身体の外側へ向かって落ちる。落ちた下から上へ。そこから、正面に降りて来る。
三本の柱を、一筆書きで続けて描く様な剣の軌跡だった。
それでも、剣の先が通り過ぎた場所に、見えない丸いものが残った気がした。
丸なのに、丸だけではない。
水の上の光みたいに、どこまでも続いている気がした。
「すげぇ」
ヴァンは、それしか言えなかった。
爺ちゃんは剣を下ろす。
「他の事は忘れても、この型の動きだけは絶対に忘れるな」
「わかった」
それは絶対に忘れることのできない約束だった。
この日からヴァンは爺ちゃんがいなくても鍛錬した。
爺ちゃんが火を見ている時。
魚を干している時。
山から戻って、まだ空が明るい時。
爺ちゃんがまだ寝ている時。
暇さえ見付けては、覚えた剣の型をなぞった。
山は光った。川は鳴った。魚は跳ね、鳥は歌い、夜には星が出た。
また秋が過ぎて、冬が来た。
*
ある寒い日の朝、ヴァンは静かに目を覚ました。
火が消えていた。
外は白く明るい。
鳥が鳴いている。
爺ちゃんは、まだ寝ていた。
「爺ちゃん」
返事がない。
ヴァンは起き上がった。
「爺ちゃん」
近づく。
大きな身体は、いつもと同じようにそこにある。腕も、肩も、胸も、ぜんぶ大きい。
けれど、動かなかった。
「爺ちゃん!」
ヴァンは袖を引いた。
硬くて、重かった。
いつもなら、片手でヴァンを持ち上げる腕だった。山も、川も、森も、魔物も、何でも知っている腕だった。
動かなかった。
「爺ちゃん…」
声が小さくなった。
外で、川の音がした。
鳥が鳴いた。
朝の光が、戸口から差し込んでいる。
世界は、いつもみたいにきらきらしていた。
爺ちゃんだけが、起きなかった。




