第二十二話 形見
爺ちゃんが起きない。
何度呼んでも起きない。肩を揺すっても、腕を引いても、胸に耳を当てても、いつもの音がしない。寝ている爺ちゃんなら知っている。大きな胸がゆっくり上がって、下がって、たまに鼻から変な音がして、おれが笑うと、何じゃ、と目を開ける。だから、寝ている爺ちゃんは分かる。けれど、その朝の爺ちゃんは寝ているのと違った。そこにいるのに、そこにいないみたいだった。腕も、肩も、胸も、昨日までと同じように大きいのに、どれだけ呼んでも何も返ってこなかった。おれの聞き方が悪いのかと思って、胸に当てる耳の場所を変えた。爺ちゃんの胸は大きいから、どこかには音があるはずだった。でも、なかった。爺ちゃんの中にあったはずの音が、どこにもなかった。
何をすればいいのか分からなかった。火を起こすことは知っている。水を汲むことも知っている。魚を釣ることも、罠を置くことも、山で迷わないことも、川の音を聞くことも、木剣を握って立つことも知っている。爺ちゃんが教えてくれたからだ。でも、爺ちゃんが起きない朝に、何をすればいいのかは知らない。爺ちゃんが起きないのに火を起こしていいのか、爺ちゃんが起きないのに水を汲んでいいのか、爺ちゃんが起きないのに飯を作っていいのか、そういうことを知らない。知らないのに、腹は減った。爺ちゃんが起きないのに、おれの腹だけいつもみたいに鳴った。それが嫌だった。今じゃないと思った。今は鳴るなと思った。でも、腹は減る。爺ちゃんは、腹が減ったなら食えと言う。飯を抜くなと言う。動くなら食え、食ったなら動けと言う。だから、おれは火を起こした。火口を置いて、薪を選んで、火を移して、息を吹いた。火はついた。爺ちゃんがいなくても火はついた。それが少し怖かった。爺ちゃんがいなくても火がつくなら、爺ちゃんがいなくても朝は進むのかと思った。爺ちゃんがいなくても腹が減って、爺ちゃんがいなくても粥が煮えて、爺ちゃんがいなくても鳥が鳴くのかと思った。
鍋をかけて粥を作った。水の量は、たぶん間違っていない。米を入れて、混ぜて、焦げないように見ていた。いつもなら爺ちゃんが横にいて、そうじゃない、もう少し待て、火を強くするな、と言う。今日は言わない。だから、おれはずっと鍋を見ていた。こぼしたら、また爺ちゃんの腕に火傷がつくような気がした。もう、つかないのに。椀は二つ出した。おれの分と、爺ちゃんの分。爺ちゃんの椀はおれのより大きい。いつも多く入れる。爺ちゃんはたくさん食べる。山へ行くからだ。薪を割るからだ。丸太を担ぐからだ。魔物が出たら前に立つからだ。だから、爺ちゃんの椀には多く入れる。おれは椀を置いて、「爺ちゃん」と呼んだ。起きない。「飯」と言った。起きない。粥から湯気が上がっていた。おれの椀からも、爺ちゃんの椀からも、同じように上がっていた。おれは自分の分を食べた。味はした。あたたかかった。腹に入った。爺ちゃんの椀はそのままだった。湯気が少なくなって、白いものが表面に張って、それでも爺ちゃんは食べなかった。焦げた魚でも食べる。硬い肉でも食べる。おれが失敗した粥でも、食えんことはないと言って食べる。なのに、食べなかった。
食べない、と思った。起きないだけじゃない。食べない。息をしない。喉が渇かない。腹が減らない。腕の火傷も痛くない。山へ行かない。川へ行かない。おれの姿勢を直さない。何じゃ、と言わない。そうか、と言わない。もう一回じゃ、と言わない。拾え、と言わない。寝ているのとは違う。魚が跳ねなくなるのと同じなのかと思った。猪が罠の中で動かなくなるのと同じなのかと思った。魔物が爺ちゃんの剣で倒れて、もう起きなかったのと同じなのかと思った。そう思ったら、家の中のものが、急にぜんぶこっちを向いた気がした。
ベアトラップがあった。罠を覚えたばかりの頃、おれは調子に乗った。獣の道を見つけて、土のへこみや草の倒れ方を見て、ここだと思って置いた。朝になると猪がかかっていた。すげぇと思った。爺ちゃんみたいになったと思った。だから、また置いた。またかかった。また置いた。またかかった。たくさん取れたら、もっとすげぇと思った。爺ちゃんに褒められると思った。けれど、爺ちゃんは怒った。食いきれん命を取るな、と言った。あの時は分からなかった。取れたのに。すごいのに。褒めてくれると思ったのに。でも爺ちゃんは怒ったまま、猪を無駄にしなかった。肉を捌いて、骨を分けて、皮を干して、脂を取って、おれにもやらせた。手が臭くて、腕が痛くて、途中で嫌になった。取ったなら最後まで持て、と爺ちゃんは言った。猪は猪で、肉で、飯だった。でも、それだけじゃないから爺ちゃんは怒ったのだと思う。たぶん、あれが命だった。
釣竿もあった。最初は糸の結び方も分からなかった。餌を針につけるのも下手で、指に刺さって痛いと言った。爺ちゃんは笑わなかった。大きな手でおれの手を包んで、針の向きと、餌を刺すところを教えてくれた。魚にも飯の時間がある、と言った。水の色を見ろ、影を見ろ、音を聞け、と言った。おれには、川は川だった。水は水だった。でも、爺ちゃんが指を差すと、影の下に魚がいた。石の横に魚がいた。流れが曲がるところに魚がいた。竿の先が震えて、魚が跳ねて、光を散らして空へ上がった。釣ったら食う。食うなら殺す。殺したなら食う。そう言われた。魚はきれいで、うまくて、焼くと匂いがして、塩を振るともっと飯になった。でも、飯になる前にも魚は魚で、跳ねていて、光っていて、あれもたぶん、爺ちゃんの言う命だった。
ふちの欠けた鍋もあった。あれは、おれが落とした。火のそばで、持てると思った。熱いと知っていたのに、自分なら持てると思った。少し持ち上げて、すぐに手が滑った。中の汁がこぼれて、おれの方へ落ちた。爺ちゃんの腕が伸びた。おれの前に入った。じゅ、と嫌な音がした。爺ちゃんの腕が赤くなった。おれは固まって、何もできなかった。爺ちゃんは自分の腕を見なかった。怪我はないか、と聞いた。おれが首を振ると、そうか、と言って、それから水を汲めと言った。鍋のふちは、その時に欠けた。爺ちゃんの腕には、しばらく赤い跡が残った。見るたびに、おれの腹の中が変になった。爺ちゃんは、もう痛くないと言った。うそだと思った。痛いはずだと思った。でも爺ちゃんがそう言うなら、そうなのかと思うしかなかった。けれど、爺ちゃんはおれの前に腕を入れて、おれが熱いものをかぶらないようにした。おれが怪我をしないようにした。なのに、おれは爺ちゃんに、ありがとうを言い忘れてた。
魚も、猪も、魔物も、おれも、爺ちゃんの言う「命」のそばにあった。爺ちゃんが怒ったものも、食えと言ったものも、怖いと分かって持てと言ったものも、火傷してでも前に入ったものも、ぜんぶそこにあった。なら、爺ちゃんのこれも、そこにあるのだと思った。まだ言葉が合っているのか分からない。でも、そう思った。爺ちゃんの命が、終わったのだと思った。火が消えるみたいに、魚が跳ねなくなるみたいに、猪が動かなくなるみたいに、魔物が倒れてもう起きないみたいに、爺ちゃんの命が終わったのだと思った。
爺ちゃんは死んだ─────────────
そう思った時、目から水が出た。急に出た。止めようとしても止まらなかった。何だこれは、と思った。悲しい、なのかもしれない。でも、悲しいだけならもっと小さいはずだと思った。魚を釣り逃がした時も悲しい。薪が上手に割れなかった時も悲しい。悲しいは、小さいはずだ。でも、これは腹の中がからっぽになって、そこへ冷たい石を詰められたみたいで、喉の奥が狭くて、息が変で、手が冷たくて、頭の中で爺ちゃんの声ばかりして、でも本当の爺ちゃんは起きなくて、何かを言いたいのに、何を言えばいいか分からない。名前がなかった。爺ちゃんに聞きたかった。爺ちゃん、これは何だ。これはどうやって持てばいい。どうやったら落とさない。それとも捨てた方がいいのか。どうやったら最後まで持てる。どうやったら失くせるのか。でも、爺ちゃんは起きて、教えてくれない。
命が終わったらどうするかは知っている。動物が来る。匂いを嗅ぐ。掘り返す。だから深く掘る。浅いと駄目だ。土はしっかりかける。山で死んだ獣を見た時に、爺ちゃんが教えてくれた。命が終わったものを雑にしてはいけない。けれど、置いたままにもしてはいけない。そう言われた。だから、スコップを持った。どこに掘ればいいのか分からなかった。爺ちゃんなら、水の流れを見ろとか、根を見ろとか、風の通りを見ろとか言ったと思う。でも言わない。おれは家から見えるところにした。爺ちゃんが山へ行く時に通る場所で、川の音も少し聞こえる場所にした。正しいかどうかは分からない。でも、そこがよかった。
掘った。土は重かった。石に当たると手がびりっとした。何度もスコップが止まった。腕が痛い。足が痛い。息が変になる。目から水が落ちる。土に落ちる。手にも落ちる。土なのか涙なのか分からなくなる。爺ちゃんは重かった。いつもなら、おれを片手で持ち上げる腕だった。川で丸太を担いだ腕だった。魔物の前に立った背中だった。その爺ちゃんを、おれが動かさなきゃいけなかった。うまくできなかった。何度も止まった。手が滑った。服が土だらけになった。顔にも土がついた。口の中まで土の味がした。それでもやめなかった。やめたら、爺ちゃんが半分だけ外にいるみたいで嫌だった。最後まで持て。爺ちゃんの声がしていた。
土をかけた。何度もかけた。爺ちゃんの顔が見えなくなる時、胸の中がぐしゃっとなった。やめたくなった。土をどけたくなった。もう一回、爺ちゃんと呼びたくなった。呼んだかもしれない。声になったかは分からない。それでも、土はかけた。これは取った命じゃない。そう思った。でも、最後まで持つものだと思った。おれが持たなきゃいけないものだと思った。土をかけて、手で押さえて、何度も押さえて、形を作った。きれいではなかった。まっすぐでもなかった。爺ちゃんなら直したかもしれない。でも、爺ちゃんは何も言わなかった。終わってしまったからだと思った。
爺ちゃんを埋めた目印。自分で持てた一番大きな石の前に座った。スコップは横に倒した。もう持てなかった。手が震えていた。爪の中は黒かった。腕も足もぜんぶ重かった。爺ちゃんの剣は両手で抱えていた。一緒に埋めようかと思った。爺ちゃんの剣だからだ。魔物を斬った剣。初めて持たされた時、胸の奥までずしんと落ちた剣。刃は、抜いたら本気でやれ。本気でないなら絶対に抜くな。家族の秘密だと言って、型を見せてくれた剣。ほかの事は忘れても、この型の動きだけは絶対に忘れるなと言われた剣。爺ちゃんのものなら、爺ちゃんと一緒に埋めるのがいいのかもしれないと思った。
でも、剣はまだ死んでいない気がした。鞘に入ったままなのに重い。何も言わないのに、そこにある。爺ちゃんの手を離れても、まだ何かを持っている。抜いていないのに、空気が少し重くなる。だから埋めなかった。けれど、抱いているうちに、分からなくなった。これはまだ生きているのか。爺ちゃんが持っていないのに、本当に剣なのか。爺ちゃんの手の中にあった時、この剣は魔物の前に立って、木を裂いて、火の前で光って、家族の秘密を描いた。今は、おれの腕の中で重たいだけだった。死んでいない気がしたのに、生きているとも思えなかった。鞘の中で眠っていて、もう起きないのかもしれない。爺ちゃんみたいに。
そう思ったら、駄目だった。また目から水があふれた。息ができない。胸が痛い。喉がつまる。剣は重い。埋めた土は冷たい。山は光っている。川は鳴っている。鳥も鳴いている。全部いつも通りなのに、爺ちゃんだけがいない。爺ちゃんの命が終わって、爺ちゃんの剣も死んだままかもしれなくて、おれは何をしたらいいのか分からなくて、何も分からなくて、ただ剣を抱いて泣いた。泣き喚いた。もう五歳になったのに。
「爺ちゃん」
声が出た。返事はない。声が聞きたいよ。
「爺ちゃん」
もう一回呼んだ。返事はない。嫌だよ。
「爺ちゃん、爺ちゃん、爺ちゃん……」
言葉がそれしかなかった。命も、剣も、火も、山も、川も、ぜんぶ爺ちゃんから来たのに、今のおれには爺ちゃんという言葉しか残らなかった。起きて、と言ったのかもしれない。戻って、と言ったのかもしれない。そうかって言って、と言ったのかもしれない。分からない。ただ、呼んでいた。
「爺ちゃん……爺ちゃん……爺ちゃん……」
剣を抱いたまま、墓の前で泣いた。土だらけの手で、爺ちゃんの剣を汚していると思った。でも放せなかった。気絶しても放すな、と爺ちゃんは言った。これは稽古じゃない。でも放せなかった。放したら、爺ちゃんがもっと遠くへ行く気がした。呼んでも返らないところへ行く気がした。もう行っているのかもしれない。でも、放せなかった。手放したくはなかった。
後ろで草を踏む音がした。本当なら、すぐに振り返らないといけない。音がしたら見る。匂いが変わったら止まる。鳥が黙ったら伏せる。知らない足音を背中に置くな。生き残りたいなら、そうしろ。爺ちゃんに、そう教わった。でも、おれは振り返れなかった。涙で何も見えてなかった。自分の泣き声で、何も聞こえてなかった。剣を抱いたまま、土だらけで、しるしの前に座っていた。
「おまん、一人で埋めたがか」




