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緋鋼皇国物語Ⅰ 第一期 第一部 七聖学院編  作者: ふみの世界樹
第二章 ともだち

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第二十話 始まり



───カァァンッ!



 ヴァンの手から木剣が弾き飛んだ。


 土の上を転がり、少し離れたところで止まる。


 手のひらが熱い。


 指の奥がじんじんしている。


 ヴァンは自分の手を見て、それから前を見た。


 じいちゃんが立っていた。


 大きな身体だった。腕も、肩も、胸も、ぜんぶ大きい。袖の下で筋が動くたび、太い縄が皮膚の下を走っているように見えた。薪を山ほど抱えても、川で濡れた丸太を担いでも、じいちゃんは重そうな顔をしない。


 そのじいちゃんが、木剣を片手に持っている。


 怒っていない。


 笑ってもいない。


「拾え」


 じいちゃんが言った。


 ヴァンは木剣を見た。


 それから、もう一度、自分の手を見た。


「いたい」


「そうじゃな」


「いたい」


「そうじゃ」


 じいちゃんは手を差し出さなかった。


 まだ五歳の少年が、自力で立つまで、ただ待っている。


 ヴァンは唇を噛んだ。


 泣きそうだった。


 けれど、泣いたら負けたみたいで嫌だった。


 木剣のところまで歩き、両手で拾う。


「もう一回じゃ」


「……うん」


 じいちゃんみたいになる。


 だから、ヴァンは木剣を握った。


   *


 ヴァンが最初に覚えているじいちゃんは、いつも前にいる背中だった。


 山道を歩く時も、川へ下りる時も、森の中を進む時も、じいちゃんは前にいた。ヴァンはその後ろを、小さな足で追いかける。


 朝の山は光っていた。


 葉の先に水の粒がついていて、歩くたびにきらきら揺れる。濡れた土は少し甘いにおいがした。鳥の声は高く、遠くの川はまだ見えないのに、さらさらと音だけが先に聞こえてくる。


 じいちゃんは、その全部を知っていた。


「あの鳥はな、雨のあとによく鳴く」


「すげえ」


「あの雲が伸びる日は、昼から風が変わる」


「すげえ」


「川の音が高い時は、水が増えておる」


「すげえ」


 ヴァンには、ほとんど分からない。


 けれど、じいちゃんが指を向けると、ただの山も、川も、空も、急に何かを隠しているように見えた。


「転ぶぞ」


「ころばない」


 言ったすぐあとに、木の根につまずいた。


 じいちゃんの手が伸びる。地面に落ちる前に、ヴァンの身体はひょいと持ち上げられていた。


 片手だった。


 ヴァンが両手でしがみついても動かない腕で、じいちゃんは軽々と持ち上げる。


「転んだな」


「ころんでない」


「そうか」


 じいちゃんは笑って、ヴァンを肩へ乗せた。


 肩の上は高い。


 木の枝も、道の先も、遠くの湖も、いつもよりよく見える。朝の光が湖の上で細かく砕けて、銀の粉をまいたみたいにきらきらしていた。


「じいちゃん」


「なんじゃ」


「すげえ」


「そうか」


 じいちゃんは、何でもできた。


 魚を釣る。


 火を起こす。


 獣の足跡を見つける。


 鳥の声を聞き分ける。


 雲の流れを見て、明日の天気も当てる。


 夜になれば、星を指して、あれは旅人の目印だとか、あれは昔の王の剣だとか、よく分からない話をしてくれた。


 ヴァンには、半分も分からなかった。


 それでも、じいちゃんの声を聞いているのは好きだった。


 ある朝、じいちゃんは細い竿を二本持ってきた。


「今日は釣りじゃ」


「つり」


「魚を釣る」


「さかな」


「食う」


「くう」


 ヴァンは頷いた。


 分かっていない顔で、しっかり頷いた。


 川辺は冷たかった。


 水は澄んでいて、石の間を小さな魚の影がすいと抜けていく。日の光が水の上で跳ね、川底の白い石がゆらゆら揺れている。ヴァンはそれを追いかけようとして、襟首を掴まれた。


「落ちる」


「おちない」


「落ちる前じゃ」


 じいちゃんはヴァンを平たい石に座らせ、竿の持ち方を教えた。


 糸を垂らす。


 待つ。


 水はきれいだった。風が吹くと、光が細かく割れる。魚の影が動くたびに、川の中の世界まで動いているように見えた。


 ヴァンはすぐに飽きた。


「まだ?」


「まだじゃ」


「まだ?」


「魚にも都合がある」


「さかな、こない」


「お前が騒ぐからじゃ」


 ヴァンは口を閉じた。


 すぐ開いた。


「きた?」


「まだじゃ」


 じいちゃんは声を立てずに笑った。


 やがて、竿の先が小さく震えた。


 じいちゃんの大きな手が、ヴァンの手に重なる。


「今じゃ」


 引いた。


 水面が跳ねる。


 銀色の魚が、光を散らして宙へ上がった。


「とれた」


「釣れたな」


「じいちゃん、すげえ」


「今のは、お前が釣った」


「おれ?」


「お前じゃ」


 魚は石の上で跳ねている。


 ヴァンは笑いかけて、少し止まった。


「これ、くうの?」


「食う」


「食うなら、殺す。殺したなら、食う」


 ヴァンは魚を見た。


 さっきまで水の中で光っていたものが、今は自分の前で跳ねている。


 昼には、その魚を焼いて食べた。


 塩だけだった。


 皮はぱりっとしていて、白い身から湯気が立った。熱くて、少し焦げていて、うまかった。


「うまいか」


「うまい」


「なら、覚えておけ」


「なにを?」


「それが、命をもらうということじゃ」


 ヴァンは、よく分からなかった。


 けれど、魚がうまかったことと、じいちゃんの声が静かだったことは覚えた。


 別の日には、狩りを見に行った。


 ヴァンは弓を持たなかった。


 剣も持たなかった。


 ただ、じいちゃんの後ろを歩いた。


「今日は見るだけじゃ」


「おれもやる」


「まだ早い」


「できる」


「歩く音がでかい」


「でかくない」


 ヴァンが一歩踏む。


 落ち葉が、ばり、と鳴った。


「でかい」


「……ちょっとだけだ」


「獣には十分じゃ」


 森の中で、じいちゃんの足音は消えた。


 あんなに大きな身体なのに、枝を踏まない。葉を鳴らさない。息も乱れない。肩は岩みたいに大きくて、腕は丸太みたいに太いのに、森の中では風みたいに静かだった。


 ヴァンは真似しようとして、できなかった。足を置けば音が出る。枝を避けようとすれば、別の枝に袖が引っかかる。


 じいちゃんは時々立ち止まり、ヴァンが追いつくのを待った。


 森の奥で、じいちゃんが手を上げた。


 ヴァンは止まった。


 木々の隙間に、光が落ちている。


 その中に、大きな角を持つ獣がいた。


 背中に朝の光を受け、毛並みが金色に見えた。ゆっくり草を噛み、耳だけを動かしている。


 ヴァンは声を出しそうになって、慌てて口を押さえた。


 じいちゃんが弓を構えた。


 動きはゆっくりだった。


 けれど、いつ放ったのか、ヴァンには分からなかった。


 弦の音が鳴った時には、矢はもう飛んでいた。


 獣が倒れる。


 森が、音を取り戻す。


「じいちゃん」


「なんじゃ」


「すげえ」


「そうか」


 じいちゃんは獣の前に膝をついた。


 ぞんざいには扱わない。


 血のにおいがして、ヴァンはじいちゃんの袖を掴んだ。袖の下の腕は硬く、温かかった。


「こわいか」


「こわくない」


「そうか」


「……ちょっとだけ」


「そうか」


 大きな手が、ヴァンの頭に乗る。


「怖いと思えるなら、まだ大丈夫じゃ」


「こわいのに?」


「怖いものを怖いと分かるのは、大事じゃ」


 その夜、小屋の中、ヴァンは火のそばで眠った。


 火は赤く、ぱちぱちと小さな音を立てていた。肉の焼ける匂いがまだ残っている。外では虫が鳴き、草がこすれ、夜の山がゆっくり息をしていた。


 何かが鳴くたびに、ヴァンは布の中から顔を出す。


「じいちゃん」


「なんじゃ」


「いまの、なに?」


「狐じゃ」


「まもの?」


「違う」


 しばらくすると、また別の声が聞こえた。


「じいちゃん」


「なんじゃ」


「いまのは?」


「梟じゃ」


「まもの?」


「違う」


 次に聞こえた音で、じいちゃんが起きた。


 それだけで、ヴァンも目を覚ました。


 家の外で、何かが動いている。


 獣とは違う。


 鳥でもない。


 地面を擦るような音と、濁った息。


「じいちゃん」


「動くな」


 じいちゃんの声は低かった。


 怒った声ではない。


 でも、いつもの声とも違う。


 壁際に置いていた剣を取る。鞘が火を受けて、鈍く光った。


 ヴァンは、その時初めて、剣を怖いものだと思った。


 じいちゃんが小屋の外へ出る。闇から、魔物が飛び込んできた。


 爪が見えた。


 牙が見えた。


 濁った目が、火の明かりを弾いた。


 次の瞬間、じいちゃんは魔物とヴァンの間にいた。


 剣が光る。


 音が一つ。


 魔物は倒れていた。


 ヴァンは息を忘れた。


 火がはぜる。


 血のにおいがする。


 じいちゃんは、ゆっくりと剣を下ろした。


「怪我はないか」


 ヴァンは答えられなかった。


「ヴァン」


「……ない」


「そうか」


 じいちゃんは頷いた。


 それだけだった。


 魔物を倒したことを誇らない。


 怖がったことを笑わない。


 ただ、ヴァンが無事かどうかだけを確かめた。


「じいちゃん」


「なんじゃ」


「すげえ」


 声が震えた。


 じいちゃんは少しだけ笑った。


「怖かったか」


「こわくない」


「そうか」


「……ちょっとだけ」


「そうか」


 その夜、ヴァンはなかなか眠れなかった。


 目を閉じると、魔物の目が浮かぶ。


 爪が浮かぶ。


 それから、じいちゃんの背中が浮かぶ。


 魔物と自分の間に立った背中。


 怖いものの前から、逃げなかった背中。


 朝になって、ヴァンは外へ出た。


 じいちゃんは、昨夜の剣を拭いていた。


 刃はもう鞘に収まっている。


 昨日の怖さは、そこにはなかった。


「じいちゃん」


「なんじゃ」


「おれも」


「うん」


「おれも、それやる」


 じいちゃんは手を止めた。


「これか、剣か」


「けん」


「どうしてじゃ」


「じいちゃんみたいになる」


「じいちゃんみたいに?」


「うん」


 ヴァンは頷いた。


「まものがきても、まえに立つ」


 じいちゃんは、しばらく黙っていた。


 鳥が鳴く。


 朝の空気は冷たく、吐く息が白かった。


「剣は、格好をつけるためのものではない」


「うん」


「強く見せるためのものでもない」


「うん」


「怖くないふりをするためのものでもない」


「……うん」


「それでも学ぶか」


「まなぶ」


「言われた通りにするか」


「する」


「そうか」


 じいちゃんは、持っていた剣を差し出した。


「持て」


 ヴァンは両手を出した。


 重かった。


 木でも、枝でもない。


 持った瞬間、腕が下がる。胸の奥まで、ずしんと何かが落ちた。


「それが剣じゃ」


「けん」


「人を殺せるものじゃ」


 ヴァンは剣を見た。


 急に、手の中のものが怖くなった。


 じいちゃんはすぐに取り上げなかった。


 ヴァンがその重さを覚えるまで、ただ見ていた。


 やがて、じいちゃんは剣を取り上げた。


「しばらくは、こっちじゃ」


 じいちゃんは、短い木の棒を渡した。


 木の棒なのに、さっきの剣の重さが手に残っていた。


「両手で持て」


「うん」


「足を開け」


「うん」


「腰を落とせ」


「うん」


 ヴァンは言われた通りにした。


 じいちゃんは何も言わずに、ヴァンの姿勢を直した。


 腹に触れ、顎を引かせ、背中を伸ばす。肩を下げ、肘の角度を変え、最後に小さな手の上から握りを確かめる。


 何を直されたのか、ヴァンには分からなかった。


 でも、その形のほうが、さっきより長く立っていられる気がした。


 両手で棒を持つ。


 足を開く。


 腰を落とす。


 それだけだった。


 振らない。


 歩かない。


 打たない。


 ただ、立つ。


 最初は平気だった。


 けれど、すぐに足がぷるぷるした。腕が重くなる。背中が痛い。息が苦しい。


「いつまで?」


「立て」


「けん、ふらないの?」


「立て」


「つまんない」


「立て」


 ヴァンは唇を尖らせた。


「もういい?」


「立て」


「なんで?」


「言われた通りにすると言うたな」


「……うん」


「なら、立て」


 ヴァンは立った。


 膝が震える。


 棒が下がる。


「放すな」


「うん」


「気絶しても放すな」


「うん」


 ヴァンは握った。


 手が痛い。


 腕が痛い。


 足が痛い。


 山の光も、川のきらきらも、鳥の声も、どこかへ行ってしまったみたいだった。


 あるのは、棒の重さと、足の痛さだけだった。


「じいちゃん」


「なんじゃ」


「もういい?」


「立て」


 また、立つ。


 日が少しずつ動く。


 影が伸びる。


 汗が頬を流れて、顎から落ちる。


 ヴァンは何度も棒を落としそうになった。


 そのたびに、じいちゃんの声が落ちた。


「放すな」


 ヴァンは握った。


 夕方になった。


 腕はもう上がらない。


 足も、どこが痛いのか分からない。


 息を吸うたびに、胸がぐしゃっとなる。


 涙が出た。


 止まらなかった。


「もうやだ」


 棒が震える。


「やりたくない……」


 ヴァンはその場に崩れた。


 土に膝がつく。


 両手の中で、棒だけは握っていた。


「もうやめたい」


 じいちゃんは、いつもみたいに言った。


「そうか」

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