第十九話 剣
剣の勝負は、裏庭で行われた。
裏門を抜けた先の庭園には、午後の光が斜めに落ちていた。低い花壇と、刈り込まれた植え込み。古い石畳の向こうには、湖へ下りる階段が見える。
ミコトは、その先の桟橋を一瞬だけ見た。
最初に目を覚ました場所だった。
ミコトはそちらから意識を二人に戻した。
ロイが、木剣を手にしている。ヴァンもまた、別の木剣を受け取っていた。
どちらも剣術の授業で使うものだ。
「待って、ロイ様」
先に止めたのは、オーレリアだった。
いつもならすぐに開かれる手帳は、胸元で閉じられていた。筆記具も出ていない。
「剣で勝負する必要なんてないのよぅ。さっきの皇國将棋だって、ちゃんと勝負だったわ」
ロイは振り返った。
いつものように明るい顔だが、真剣さも同居しているように見えた。
「オーレリアは、僕が怪我をするのが嫌なのか」
「当然よぅ」
オーレリアは眉を寄せた。
「ロイ様が怪我をするのも、ヴァンが怪我をするのも、私は嫌よぅ」
ロイの表情が、少しだけ緩んだ。
嬉しそうだった。
その顔に、オーレリアがさらに困る。
「喜ぶところではないのよぅ」
「すまない。嬉しかった」
「そういうところよぅ」
ミコトは、二人を見ていた。
ロイは、初めて会った時から勢いの強い少年だった。声は大きく、感情はまっすぐで、オーレリアのこととなると隠すということを知らない。
許嫁。
その言葉は知っている。
けれど今、ミコトの前にあるのは、言葉だけではなかった。オーレリアは本気で困っているのに、ロイを突き放すようには見えない。ロイもまた、はしゃいでいるだけではなく、オーレリアの言葉をちゃんと聞いている。
「ロイ君」
ハリエットも一歩前に出た。
「本当に、戦う必要はないと思う。木剣でも、当たったら痛いよ」
「分かっている」
「だったら」
「だから、ちゃんと真剣にやる」
ロイの声が少し変わった。
オーレリアへ向ける浮き立った声ではない。大人に向ける礼儀正しい声でもない。
剣を持った者の声だった。
「ちゃんとやらない方が危ない。僕は、ヴァンを傷付けたいわけじゃない」
ハリエットはまだ不安そうだった。
ハリスが、庭を見回している。
ローティは悪気なく笑っていた。
「面白くなってきた」
「面白がるな」
ハリスが即座に返す。
「怪我をしたら面白くない」
「分かってるって。でも、見たいだろ」
「見たいかどうかと、安全は別だ」
ヴァンは、そのやり取りを聞いているのかいないのか、木剣を片手に立っていた。
止めず、急かさず、構えもしない。
ただ、ロイを見ている。
何を考えているのか、全く分からなかった。
「ヴァンさんは、止めないんですか?」
ミコトは小さく聞いた。
ヴァンがこちらを見る。
「ロイがやるって」
「でも、オーレリアさんもハリエットさんも、しなくていいって」
「二人は、ロイじゃない」
短い返事だった。
突き放しているようにも聞こえたけれど、違う気がした。ヴァンは、ロイを軽く見てはいない。止めないって、そういうことだ。ロイが自分で決めたなら、それが大事なんだ。
「ヴァン」
ロイが呼んだ。
「お前は、止めないんだな」
「なんだ。止めてほしいのか」
「いいや」
ロイは笑った。
オーレリアが、胸元の手帳をぎゅっと抱いた。
「ロイ様」
「うん」
「私は、やっぱり反対よぅ」
「そうだろうな」
「ロイ様が、私のために何かしようとしてくれるのは嬉しいわ。でも、私のためだと言って、痛い思いをしてほしいわけではないのよぅ。そんな勝負なんてしなくても、ちゃんと私は『ロイ』を認めてるのよぅ」
ロイは、黙って最後まで聞いていた。
それが少し意外で、ミコトは瞬きをする。勢いだけの少年かと思ったら、オーレリアの言葉を、ちゃんと受け止めている。
「ありがとう、オーレリア」
ロイは静かに言った。
「それは、すごく嬉しい」
「だったら」
「でも、それでもやる」
オーレリアの手が、手帳を抱く力を少しだけ強めた。
「どうしてよぅ」
「オーレリアが僕を認めてくれているからこそだ」
ロイはヴァンを見る。
もう、照れた顔ではなかった。
「君が認めてくれている僕が、ここで引くわけにはいかない」
オーレリアが口を閉じる。
「僕は、君が一番大事だ」
「ここで言わなくてもいいのよぅ」
「ここで言う」
「なぜよぅ」
「大事なことだからだ」
真っ直ぐすぎる。
ミコトは、見ているこちらの方が少し恥ずかしくなった。けれど、ロイの声はそこで止まらない。
「でも、君が一番大事だからこそ、引けない時がある」
ロイの一人称が変わる。
「オレは、君の前で逃げる男にはなりたくない」
オーレリアが顔を上げた。
「君に格好をつけたい。情けないところを見せたくない。それもある。けど、それだけじゃない」
ロイはヴァンを見る。
「さっき、盤の上で向き合って分かった。こいつは、ちゃんと正面から向き合わないと見えない。まだ何かある」
ヴァンは何も言わない。
「だから、剣でも向き合う。オーレリアの許嫁としてだけじゃない。ロイ・アッシュフィールドとして、引けない」
オーレリアは困ったように息を吐いた。
「……ロイ様は、馬鹿ねぇ」
「知っている」
「そこは否定してほしかったのよぅ」
「君に嘘はつけない」
「そういうところよぅ」
呆れた声だった。
でも、そこには小さな柔らかさがあった。
ミコトは、少しだけ置いていかれたような気がした。
ロイの真っ直ぐさ。オーレリアの困った顔。二人の間にある、これまでの時間。ここまでの距離。
「分かったわ」
オーレリアが言った。
「止めても、ロイ様はやるのね」
「やる」
オーレリアは、しばらく黙って目を閉じた。
開いた。そして、手帳を広げた。
「なら、記録するわ」
筆記具を持つ手が、少しだけ震えていた。
「ロイ様が馬鹿なことをしたら、全部書くのよぅ」
「それは困る」
「困るなら、馬鹿なことをしないことねぇ」
「分かった」
ロイは笑った。
そして、ヴァンへ向き直る。
「待たせた」
「別に」
「やるぞ」
「やるか」
「ああ」
ハリスが一歩前へ出た。
「条件を確認する」
二人がハリスを見る。
「剣を落としたり、倒れたら止める。顔と首は狙わない。石畳から出ない」
ロイが頷く。
ヴァンも小さく頷いた。
「ローティ」
「前に出るなだろ?」
「ハリエット」
「怪我をしたらすぐ見るわ」
「オーレリア」
「もう記録してるわよぅ」
「ミコト」
「えっ」
「ミコトは……、見てて」
「あ、うん」
ハリスは全員を見てから、一歩下がって片手を上げた。
ロイが構える。
右足を前に出して、右手で持った剣を腰の高さに持っている。左の手は後ろに大きく開いて、なんだか優雅に見えた。
ヴァンは、まだ構えらしい構えを取っていない。木剣を握って、ただ立っている。それだけに見える。
二人の動きが止まった。
オーレリアの筆記具も、紙の上で止まった。ローティの口元から笑みが消える。ハリエットが息を詰めた。
ミコトも、瞬きを忘れた。
手を振り下ろしながら、ハリスが短く告げる。
「始めっ!」
ロイが先に動いた。
踏み込みは一歩。距離を消す一歩。
石畳を蹴る前に、一瞬。身体が沈んだ。沈んだと思う間もなく前に出ていた。
赤い髪が揺れた時には、もう木剣は突き出されている。
速い。
大振りではないし、威嚇の声もない。
踏み込んだ足から腰へ、腰から肩へ、肩から腕へ。力が途切れず、剣先へ流れ込んでいるのが素人目にも分かる。
木剣だから安全なのではない。
木剣でも怪我をする。当たり所が悪いと死ぬことだってある。
それぐらいのことは、ミコトにも分かった。
ロイは本気だった。殺す気とはまた違う本気。
怒っているのではない。傷付けたいのでもない。けれど、半端ではなかった。
ヴァンの心臓を目掛けて、真っ直ぐに線が伸びる。
ハリエットが小さく息を呑んだ。
オーレリアの羽ペンは、まだ動けないでいる。
ヴァンに剣が迫った。




