第十八話 対局
秘密基地の卓、ひっくり返したワイン用木箱の上に、皇國将棋の盤が置かれた。ワインの銘柄は、月姉妹と書かれている。
これは籠を使ってくれないルナに、これなら気に入るかと思って持って来たが、結局はお気に召さなかった品だ。
ヴァンとロイが向かい合う。
オーレリアは当然のように手帳を開いた。ハリエットは卓の端で落ち着かずに二人を見比べ、ローティは面白そうに椅子の背へ肘を掛けている。
ミコトは、盤の上に並べられる駒を見ていた。
駒の形は、どれも同じではない。
騎兵、槍歩兵、弓兵、魔道兵。見たことのない形のものもある。小さな人形にも、紋章にも見えた。
ロイは胸を張って座っていた。
礼儀正しい姿勢だった。
けれど盤を前にした途端、目だけがまっすぐ前に出ている。
ヴァンはいつも通りだった。
駒袋を開き、必要なものだけを手元へ寄せる。
急がない。
騒がない。
ただ、見ている。
「先手は?」
ハリスが聞いた。
「公平に決めよう」
ロイはそう言って、懐から銅貨を一枚出した。
鈍い赤みを帯びた銅貨だった。
片面には首都ラヴェニカの皇城が描かれている。
ミコトには、それがどこの何なのかまでは分からなかった。
ロイが銅貨を親指で弾いた。
小さな金属音が鳴る。
銅貨はくるりと宙で回り、ロイの手の甲へ落ちた。
もう片方の手が、すぐにそれを覆う。
「裏」
ヴァンが言った。
手が開かれる。
銅貨の上には、荘厳な皇城があった。
「よし。先手はオレが貰った」
「そうか」
ヴァンは短く答えた。
ミコトが、盤と二人を見比べる。
「先手が決まってから、駒を選ぶんですか?」
「そう」
ハリスが、ミコトの方へ少し体を向けた。
「皇國将棋は、先手か後手かを決めてから駒を選び、配置する。これは先手有利の差を埋める為なんだけど、最初から後手と分かっていれば駒の配置を工夫できるからね」
「配置も自分で決めるんですか」
「決められる範囲がある。だから、同じ先手でも、同じ後手でも、常に同じ盤面にはならない」
ミコトは盤へ目を落とした。
ただ駒を動かす遊びではないらしい。
始まる前から、もう勝負は始まっている。
ヴァンは後手の駒を選んだ。
騎兵。
槍歩兵。
弓兵。
魔道兵。
特別に奇をてらった編成ではない。むしろ基本中の基本だ。
ロイの駒は違った。
前衛にゴーレム。
後衛に砲兵と弓兵。
その後ろに神官。
ローティが目を丸くする。
「うわ、重い」
「ロイは重いのよぅ」
オーレリアも手帳に何かを書きながら呟いた。
ロイは得意げに笑った。
「正面から突破すればよい。複雑に考えすぎるから、道を見失うのだ」
「道を潰す編成だろ、それ」
ハリスが言った。
ロイは否定しなかった。
「道を作るために、邪魔なものを押し退けるのみ」
ヴァンは盤を見ていた。
後の先。
先の先。
そういう言葉はある。
だが、状況は動く。
相手も動く。
盤面も変わる。
すべてをゼロベースで見るなら、いま打つこの一手は、常に先手だ。
「始めるぞ」
ヴァンが言った。
「望むところだ」
ロイが最初の駒を動かした。
ゴーレムが前へ出る。
重い駒だった。
盤の上を一つ進むだけで、陣が押し出されたように見える。
ヴァンは騎兵で牽制する。
続いて、別のゴーレムも前へ出た。
ロイは開幕から前線を厚く作る。
弓では落ちない。
騎兵で止めても、後ろから砲兵と弓兵が圧を掛けてくる。
さらに、ゴーレムの天敵になる魔道兵へ、ロイの後衛が最初から狙いを置いていた。
真っ直ぐだった。
だが、雑な攻め手ではない。
ヴァンは弓兵を動かした。
狙うのはゴーレムではない。
ロイの弓兵。
砲兵。
後ろの火力。
ゴーレムを無理に落とす必要はない。
「そう来るよな」
ロイの口元が少し上がった。
ヴァンは答えなかった。
騎兵を一つ寄せる。
突撃ではない。
まだ、走らせない。
ロイのゴーレムが、進路を塞ぐ。
ヴァンは別の筋を見る。
そこにも、ゴーレムがいる。
ただ前に出しているわけではない。
騎兵が飛び込む線を、きちんと消している。
ヴァンの指が、駒の上で止まった。
ロイは勢いだけではなかった。
正面から来る。
正面から押す。
だが、その正面が崩れないように、側面の隙も見ている。
なら、崩す場所は正面ではない。
ヴァンは槍歩兵を寄せた。
「そこに置くか…」
ロイが言った。
ヴァンは駒から指を離す。
ロイのゴーレムが、少し動く。
誘われたというほど露骨ではない。
だが、押し返すために、その一角がわずかに前線から浮いた。
ヴァンは受ける。
押されているように見せる。
ロイは前へ出る。
ヴァンはまた受ける。
そのたびに、ゴーレムの一角だけが、ほんの少しずつ本隊から離れていく。
ミコトは、盤面の意味までは追えていないようだった。
けれど、二人の声が減っていくのは分かった。
ハリエットも黙った。
ローティも口を閉じた。
オーレリアの筆記具だけが、紙の上を走る。
ロイの指が、次の駒へ伸びたところで止まる。
気付いた。
ヴァンは盤を見ていた。
ロイの前線に、細い隙間が生まれている。
そこへ次の一手で騎兵を走らせれば、後衛へ届く。
砲兵。
弓兵。
神官。
まとめて食い散らかせる。
ロイが防ぐ手が、あるにはある。
神官を壁に置く。つまり捨て駒だ。
それなら騎兵は止まる。
だが神官を失えば、その先のロイは大きく不利になる。
ロイの指は動かなかった。
ヴァンは待った。
ロイが何を選ぶのか、見たかった。その意志を。
その時だった。
黒い影が、卓の端へひらりと乗った。
駒が倒れ、盤上が崩壊した。
弓兵が転がり、槍歩兵が横を向き、ゴーレムが前線からずれた。
神官の駒は、長い尻尾に押されて、床に落ちた。
「ルナ」
ミコトが小さく声を上げる。
ルナは答えなかった。
全員が止まった。
ルナは悪びれもせず、盤の中央に座った。
しっぽが、ぱたりと動く。
「みー」
まるで、遊んでと言ってるようだった。
ヴァンは怒らなかった。
ロイは固まっていた。
「……これは」
ハリエットが困った顔で言う。
オーレリアが、口元を手帳で隠した。
肩が笑いをこらえて震えている。
「笑いごとじゃないぞ、オーレリア」
ロイが言った。
「ごめんなさい。でも、これは傑作なのよぅ」
ハリスは崩れた盤面を見た。
倒れた駒。
ずれた前線。
ルナの前足の下にある騎兵。
世界そのものから弾かれた神官。
「これ、戻せる?」
ハリエットが尋ねた。
ハリスは少しだけ眉を寄せた。
「ゴーンズさんでもない限り、正確な再現は無理だと思う」
「へぇ、学歴は無いって聞いてたけど、ゴーンズさんって頭いいんだ?」
ローティが言った。
「違う。学歴はある」
ヴァンが短く訂正した。
ハリスが続ける。
「そう、学校歴が無いだけ」
ローティは目を瞬かせた。
「なにそれ」
「学校に行っていないのと、学がないのは違うってこと」
「そっか」
ローティは素直に納得した。
ハリスは盤から目を離さなかった。
「ゴーンズさんなら、たぶん今の盤面を完璧に覚えてる」
ルナが小さく鳴いた。盤の上で丸くなる。
これでは仕切り直しも難しい。
ロイは深く息を吸い、大きく吐いた。
「……これは、引き分けか?」
「戻せないからな」
ハリスが言った。
「だが待ってくれ。オレはまだ負けてない」
「おれも勝ってない」
ヴァンが言った。
どちらも、納得していない顔だった。
ミコトは、その二人を見比べる。
怒っているのとは違う。
嫌っているのとも違う。
ロイが先に口を開いた。
「なら、別の勝負だ」
「何で」
「剣は使えるか?」
ハリエットが小さく息を呑んだ。
「え、剣?」
ローティの顔が明るくなる。
「お、いいじゃん」
オーレリアはすでに手帳へ次の行を書き始めている。
ハリスは片手で額を押さえた。
「どうしてそうなるんだ」
「盤面で決着がつかないなら、身体で確かめるしかないだろ?」
ロイは真っ直ぐに言った。
ヴァンは、盤の上で丸くなっているルナを見た。
しばらく動く気はなさそうだった。
「剣だな。いいぞ」
ヴァンは事も無げに応じた。




