47話:スライムの女王
ロタの村の性風俗を牛耳る、巨躯のトロール。
この村の暴力の象徴であり、この男の前では誰もが膝を折る。
湯屋の前にいた客たちは一斉に黙る。
女たちも顔を強張らせた。
しかし、俺は引くわけにはない。
情けない自分に戻ってたまるものか。
「親方。久しぶり…です」
「雑用をやっていたゴミが、何をやっている?」
「俺は皆が使える場所を提供しているだけで、店を選ぶのは客や女の子たちだ」
親方はニヤニヤと笑った。
「ああ。それは素晴らしいことじゃないか」
「え、あ、ありがとうございます」
「でも、筋は通してもらわないといけないな」
捕食者の眼光、反抗を許さない強固な物言い。
本能発せられる恐怖心。目を背けたくなる現実。
今すぐ、ここから逃げ出したかった。
俺の声は、どんどん細くなっていた。
それでも、後ろで支えてくれるヒトたちがいるから、何が何でも退くわけにはいかない。
精一杯、声を絞り出す。
「何が、言いたいん…だ?」
それは小さいながらも、言葉尻では対等だという意思表明。
握り込んだ手の中が汗ばみ、溢れる胃酸は臓物に穴を開ける勢いでも。
このトロールは、そんな俺の虚勢を悠々と看破する。
「そう身構えなくてもいいじゃないか。俺は寛容だ」
「…」
「この先、お前の店を食い物にする輩が、必ず現れる」
「…」
「その時は俺が助けてやろう!そういう話をしたいんだ。悪くはないだろう?」
「…ああ。…そうなのかもしれないな」
「そうだ!俺がお前の店を脅威から守ってやる」
みかじめ料を払えと。真っ先に俺たちを脅しておいて。
なんとも、恩着せがましく言うじゃないか。
「で、その対価は?」
「売上げの半分」
「何を馬鹿な…」
「それで店が守れるんだぞ?」
ヤクザ、マフィア、暴力団。
それは、必要悪だとも言われる。
親方の言っていることは、正しい側面もあるのかもしれない。
だが——
- お前のどこに任侠がある!?
俺は背後を振り返る。
心配そうな顔をするナディアや風俗嬢たち。
そして、その奥で泣きそうな顔をした、一人の少女。
彼女たちの笑顔は、俺が守らなきゃいけない。
だから——
「要らねえよ」
「あ?」
親方の顔から笑みが消えた。
「聞こえねーのか?頭も悪そうだが、耳まで悪いんだな」
「貴様…」
「お前の用心棒なんて要らねえ。というか、お前が要らねーよ」
「…そうか。そうかそうか。それは残念だな。本当に残念だ!ここは良い金儲けの場所になると思ったんだがな!」
親方の張り上げた声に、背後の男たちが呼応し、ざわめき出す。
潮が引いたように、空気が凪ぐ。
その一瞬の静寂は、呟かれた小さな一言で破られる。
「壊せ」
男たちが、一斉に大きな歓声を上げた。
ならず者たちの、ゲスな哄笑と咆哮が耳を劈く。
「待て!」
俺が叫ぶより早く、棍棒がドアを叩き壊す。
湯屋の中へと雪崩込み、受け付け台を破壊する。
木片が飛ぶ。棚が倒れる。
竹筒が転がり、ローションが床に広がった。
女たちの悲鳴が上がる。
「やめろ!」
俺は飛び出そうとした。
だが、親方の腕が俺の胸を押し、突き飛ばした。
それだけで、俺は地面に転がってしまう。
痛い。息が詰まる。
情けないほど、何もできない。
ナディアが俺に駆け寄ろうとする。
「由太ちゃん!」
「ナディア、下がれ!」
俺は叫んだ。
男たちは個室の扉を蹴破る。
ヌルヌルベッドの膜が裂け、青い液が床に流れた。
俺は咄嗟に、エリーゼの方を見る。
エリーゼは、小さく息を呑んだ。
「あ…あ……」
その声は、ひどく弱かった。
俺は知っている。
あの膜は、ただの粘液ではない。エリーゼが作ったものだ。
女の子たちが痛くならないように。客が喜ぶように。清潔を保てるように。
必死に考え、作り、整えたものだ。
それが踏みにじられていく。
「やめてください!」
エリーゼが叫んだ。
しかし、男たちは止まらない。
「やめてください」
二度目の声は力を失っていた。
「…やめて…ください」
三度目は、低く唸るような声に聞こえた。
動揺からだろうか?
エリーゼの体が、スライム状に戻り始める。
親方がエリーゼを見下ろす。
「ははは!お前がヌルヌルを作っているスライム娘だな。ずいぶんと大きな個体だ。こいつなら、大量のヌルヌルを製造できるってわけだ」
「….」
「お前、俺の元で働け。お前が居れば、ヌルヌルが作り放題なんだろ?」
その一言で、空気が変わった。
客たちの視線がエリーゼに集まる。
女たちも息を止める。
— しまった
俺は立ち上がろうとするが、力が入らない。
彼女を守らないといけないのに...。
ならせめて——
「逃げろ!エリーゼ!」
だが、それすらも遅かった。
親方の手が、エリーゼの腕を掴む。
他人を人生を踏みにじり続けた汚い手が、無垢な彼女を汚す。
「…」
エリーゼは何も言わなかった。
それは恐怖からではなく、怒りゆえだった。
そして、異変が起こる。
湯屋の床に広がったローションが、ぴたりと止まる。
水のように流れていたはずの液体が、意志を持ったように震え始めた。
「……私の」
エリーゼが呟く。
「私たちの場所を…」
床の液体が一斉に伸びた。
青く透明な粘液が、男たちの足に絡みつく。
棍棒を持った男が叫ぶより早く、身体が浮いて店の外へと押し出される。
「なっ――」
そして、男たちは壁に叩きつけられた。
一人、もう一人、次々と倒れていく。
鞭のようにしなる、強烈な殴打と投擲。
その激しい衝撃で男たちは意識を失う。
失神を逃れた男たちも、既に身動きはとれない。
粘液が身体を縛り、床へと押しつけていた。
「エリーゼ!」
俺は叫んだが、エリーゼは振り向かない。
彼女の髪は乱れ、波紋のように広がっていく。
わずかに人型を保っていた身体も、既に輪郭が崩壊していた。
湯浴み場水、床のローショ、裂けたヌルヌルベッドの膜。
それら全てが、彼女に従うように集まっていく。
小さなスライム娘でも、売れないスライム娘でもない。
目の前にいるのは、もっと別の何かだった。
親方が初めて顔を歪める。
「…この化け物が!…気色が悪い!」
エリーゼの動きが一瞬だけ止まった。
その隙を見逃さず、親方は棍棒を振り上げた。
だが、振り下ろせなかった。
足元から伸びた粘液は、トロールの巨体を絡め取る。
腕を縛り、脚を固め、胸元まで這い上がっていく。
親方は、自慢の剛力で引き千切ろうとするが、まとわりついた粘液は凝固していく。
完全に捉えられれしまえば、もう指一本すら、動かすことはできなかった。
そして、粘液は親方の首元まで迫る。
ゆっくり、だが確実に、気道を締め上げていく。
「ぐ……!」
想像を絶するような、一方的な蹂躙だった。
あの巨躯のトロールが、暴力の権化のような男が——
「許さない…」
その声は、あの無垢な少女が発する音ではなかった。
少なくとも、俺の知っている彼女が口から出る言葉では…。
禍々しい気配を帯びた、厄災の予感が広がっていく。
「あなたが…いなければ…」
粘液がさらに締まり、親方の顔が苦痛に歪む。
「エリーゼ!もういい!」
俺は叫ぶ。
「もう大丈夫だから!やめてくれ!」
「…」
「エリーゼ!」
彼女には、俺の声が届かない。
青い瞳は焦点を失い、深い沼底のような色だった。
少しだけ回復した体を起こそうとしたが、足に力が入らない。
震える体が示すのは、足が竦んでいるという事実。
- ふざけるな!馬鹿野郎!
俺は、自分の足を思い切り叩く。
きつけだったのか、自分への怒りなのか。
ただ、俺は自分の足を打った。
- お前は堀辺由太だろ!世界を股に掛けた気高き風俗レビュワーだろ!目の前の女の子の元にすら辿り着けないでどうする!?
それでも足は動かず、俺は地を這ってエリーゼの元へ向かった。
生まれたての小鹿ですらない。立ち上がり駆け寄ることすらもできない。
親方の呻き声は、既に聞こえなくなっている。
恐らく、意識を失ったのだろう。それでも、粘液は首を締め続けていた。
このままでは——
その瞬間、俺の体が宙に浮いた。
誰かに投げ飛ばされたのだった。
少しだけ見えた。
緑の腕が一つと、毛むくじゃらの腕が一つ。
そして、そのままエリーゼの元に突っ込んでいく。
俺は、君を抱きしめる。
そして、庇うように背中を丸め、地面に落ちた。
地面に落ちた衝撃で、上手く呼吸ができない。
それでも絞り出す、肺の全ての空気を押し出して。
「…大丈夫。もう、いいんだ」
俺の胸元に収まるスライム娘。
少しずつ、体液が漏れ出し、元の大きさに戻っていく。
「……由太さん?」
「…大丈夫か?エリーゼ?」
エリーゼの声が戻る。
粘液の動きは止まり、ざばーッと地面に広がった。
親方はその場に崩れ落ち、男たちも床で呻いている。
誰も死んでいないが、誰も何もすることができなかった。
湯屋の前は、沈黙が支配していた。
客たちがエリーゼを見る。嬢たちも見る。
さっきまで、湯屋で笑っていた者たち。
ヌルヌルベッドを喜んでいた者たち。
エリーゼに礼を言っていた者たち。
その顔が、恐怖で歪んでいく。
「クイーン……」
誰かが呟いた。
「クイーン…スライムだ……」
その言葉が動揺となって広がり、一人の客が後ずさる。
それを合図にしたように、客たちは逃げ出した。
「お、おい!」
俺の声は届かない。
女の子達は動かなかった。動けなかっただけ、なのかも知れない。
逃げる者がいなくとも、誰一人もエリーゼには近づけなかった。
エリーゼは、自分の手を見る。
ドロドロになって震える、透明な空色の手。
「私……」
その声は、いつものエリーゼだった。
「私は、何を……」
俺たちの湯屋は守られたが、同時に何かが壊れてしまった。
この話は、瞬く間に村中に広まだろう。
エリーゼは、ただ湯屋を守っただけだ。
それでも、人は見たいように見る。恐れたいように恐れる。
弁解などは事態を解決に導かない。
エリーゼは顔をあげ、俺の方を見た。
不安そうな、泣き出しそうな顔だった。
俺はすぐに言葉をかけることができなかった。
伝えるべき言葉を持たず、窮してしまった。
その沈黙は、本当に最低だった。
内容など気にせず、何でも良いから言葉にするべきだった。
湯屋の外では、逃げた客たちの足音が遠ざかっていく。
その後は、あまりにもな予定調和な展開。
ロタの村は、最悪の噂で埋め尽くされていた。




