【第九話:秘匿された血脈】
三方ヶ原の惨劇から、一年以上の月日が流れた。
浜松城の奥御殿には、岡崎から乗り込んできた瀬名(築山殿)の鋭い怒声が、氷の刃のように響き渡っていた。
「……一年にございます。家康様、貴方はあの子が産声を上げてから今日まで、一年以上もの間、この私を欺き続けていたのですね!」
五郎は、瀬名の足元に投げ出された一通の書状を、無感情に見つめていた。そこには、お万の方が産んだ子――於義丸 (のちの結城秀康)の出生が克明に記されている。
実際には、お万の懐妊が発覚したのは三方ヶ原の直前であった。酒井忠次は徳川の血を絶やさぬため、戦の混乱に乗じてお万を寺へと隠したのだ。数正と忠次は「今、この事実が漏れれば入れ替わりの露見に繋がる」と危惧し、出産の事実を瀬名に伏せ続けてきたのである。
「……弁明はございませぬ。すべては、私の差配にございます」
五郎は、数正の進言通り、冷徹な「嘘」を口にした。
本当は、五郎自身も今日この時まで、兄が遺したその子の顔を知らなかった。
(会えば情が移る。情が移れば、影としての仮面が割れる)
そう忠次に諭され、一度もその子に会うことなく、ただ養育の金だけを送り続けていたのだ。だが、瀬名の目には、それが「女と隠し子を溺愛し、正妻を嘲笑っていた証」にしか映らなかった。
「……ああ、恐ろしい。三方ヶ原から戻られて以来、貴方の心は蛇のように冷え切ってしまった。隠し子を一年も隠し、今さら『徳川の血だ』と平然と言ってのける……。貴方は、本当に私の知っている家康様なればこそ、これほど残酷になれるのですか?」
瀬名の言葉は、五郎の胸を深く抉った。だが、五郎は眉一つ動かさず、ただ冷たく言い放った。
「左様。徳川を守るためならば、私は誰であろうと欺く。……瀬名、お前がそれを許せぬと言うなら、二度と浜松の土を踏むな。岡崎へ帰れ」
二人の間に割って入ったのは、嫡男・信康であった。
「父上! お待ちください。母上への言葉、あまりに苛烈にございます。母上の心中をお察しくだされ!」
信康は五郎の前に跪き、必死に訴えかけた。その真っ直ぐな瞳は、かつて寺の境内で自分を抱きしめてくれた兄・家康の面影そのものであった。
五郎の指先が、わずかに震える。目の前にいるのは、愛する兄の血を引く息子なのだ。抱きしめたい。すまなかったと、その頭を撫でてやりたい。
しかし、背後に立つ数正の視線が、五郎の心を氷壁で閉ざす。ここで甘さを見せれば、信康をも地獄の共犯者にすることになるのだ。
「……信康。お前も母に加担するか。主君の差配に異を唱える者は、徳川の世継ぎには相応しくない。下がれ」
「……父上! まことに、まことにあの頃の父上は死んでしまわれたのですか!」
信康の悲痛な叫びを背中に受けながら、五郎は一瞥もくれずに奥の間へと去った。その掌には、爪が食い込み、血が滲んでいた。




