【第八話:魔王の詰問、愛の別離】
浜松城に、一人の男が乗り込んできた。
織田家重臣・佐久間信盛。信長の「冷徹な代弁者」として知られる男だ。
広間に対峙する五郎の背中を、嫌な汗が伝う。
信長は家康を「兄弟」のように扱い、その性格を、あるいはその「臆病さ」さえも知り尽くしている。その使者を欺くことは、信長の眼を欺くことと同義だった。
「家康殿。三方ヶ原での無様な大敗……。信長様は大変お怒りだ。『あの臆病者が、ついに腰を抜かして死んだかと思ったぞ』と仰せでな」
佐久間は五郎の顔をじろじろと眺め、鼻で笑った。
「だが、こうして生きておられる。……ふむ、何やら以前より、目つきが鋭くなったように見えるが?」
五郎は、数正から教わった「必死に虚勢を張る敗軍の将」を演じた。
「……信長殿には、合わせる顔もありませぬ。ですが、徳川はまだ折れてはおらぬ。そうお伝えくだされ」
「ほう、その意気や良し。……では、この書状を。信長様より『家康本人にのみ渡せ』と預かったものだ」
佐久間が差し出した書状。そこには、信長自筆の、あまりに直球な問いが記されていた。
『貴様、本当に家康か?』
五郎の心臓が跳ねた。見透かされているのか?
だが、五郎はあえてその紙をくしゃりと握りつぶし、佐久間に向かって怒鳴りつけた。
「……バカにされるな! 生き恥をさらして戻った私を、これ以上愚弄するならば、今すぐ信長殿との同盟を断ち切るぞ!」
その「あまりに家康らしい、余裕のない激昂」を見て、佐久間は満足げに頷いた。
「……失礼した。その短気さ、間違いなく徳川殿だ。安心したぞ」
嵐の去った広間で、五郎は崩れるように座り込み、荒い息を吐いた。
「……数正。これで、織田は欺けたか」
「……はっ。ですが、殿。真の戦いは、ここからにございます」
石川数正が、音もなく五郎の前に跪いた。その手には、泥に汚れた小さな布包みが握られている。
「……それは、何だ」
「別邸の始末、すべて終えました。お万殿は左衛門尉(酒井忠次)の手により、すでに城外へ。……そして、残る一人。貴方様が『五郎』であったことを知る、最後の女も」
数正は無言で、布包みを差し出した。
中から現れたのは、お愛が大切にしていた匂い袋。五郎が、彼女との逢瀬のたびに嗅いでいた、清らかな白檀の香りだ。
「……数正、なぜそれをお前が持っている。お愛はどうした。まさか、逃がすのが遅れたのか?」
五郎が手を伸ばそうとした時、数正が冷徹な声を放った。
「始末いたしました。……侍女たちと共に、三方ヶ原の混乱に乗じて」
「……なっ!?」
「殿。貴方様を『家康』にするためには、かつての五郎様を知る者は、この世に一人として残してはならぬのです。情は徳川を滅ぼす毒。……あの方は、私がこの手で葬りました」
五郎の時が止まった。
数正の胸ぐらを掴み上げようとしたが、指先に力が入らない。
目の前が真っ暗になり、心臓の音が耳元で爆発するように響いた。
「ああああ……あああああああッ!!」
五郎は匂い袋を奪い取り、顔を埋めて絶叫した。
兄を失い、名前を失い、そしてたった一人、自分の正体を知った上で愛してくれた女性さえも、自分の「嘘」を守るために奪われた。
数正は微動だにせず、主君の慟哭を受け止めていた。
その沈黙の裏に、お愛を密かに寺へ逃がしたという、命懸けの嘘を隠したまま。
翌朝。
部屋から出てきた五郎の姿に、酒井忠次は背筋が凍るのを感じた。
そこにいたのは、心優しい弟の五郎でも、臆病だった兄の家康でもなかった。
すべてを焼き尽くし、ただ「徳川の存続」という一事のみを燃料に動く、精巧な『怪物』だった。
「忠次。数正。……これより、徳川は変わる」
その声は低く、地を這うような重圧があった。
「兄上のような徳はない。だが、私にはお前たちが言う『冷徹な主君』になれるだけの絶望がある。……武田を、一兵残らずこの地から叩き出す。……そのためには、私は妻にも、子にも、鬼と呼ばれて構わぬ」
五郎は、懐のお愛の形見を、兄が遺した『元康』の紙と共に、心の奥底へ埋めた。
五郎という人間はこの夜、死んだのだ。




