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『弟』〜家康は三方ヶ原で亡くなっていた。石川数正が仕掛けた徳川最大の虚構〜  作者: 滝丸
第一部:『影の覚醒編』

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【第十話:慈愛という名の残酷】

逆上し、泣き叫びながら岡崎へと連れ戻される瀬名の背中を、五郎は窓から見送っていた。

遠ざかる籠の揺れを見つめながら、五郎の脳裏には、かつて兄・家康と共に過ごした七年間の記憶が、淡い陽光のように去来していた。

寺での孤独な生活から救い出してくれたのは、兄上だった。

「共に暮らそう」と言って手を引いてくれた兄の温もり。初めて「家族」という輪の中に迎え入れられ、自分という存在を肯定されたあの時間は、五郎にとって何物にも代えがたい幸福であった。

自分と同じ顔を持ち、自分を「弟」として愛してくれた兄。五郎にとって家康は、いつか自分もその隣で、堂々と太陽の下を歩める日が来ることを夢見させてくれる「光」であった。

三方ヶ原へと出陣する直前、兄は笑って言ってくれたのだ。

「お愛を妻にせよ」と。

それは、影として生きてきた五郎に、兄が与えてくれた「一人の男としての未来」だった。

だが、部屋に静寂が戻ると、石川数正が差し出した書状が、その思い出を冷酷に塗り替えていく。

「……数正。私は、兄上の血を引く子を、一度も抱いてやることもできぬのだな」

五郎の声が、微かに震える。

お万が産んだ於義丸 。三方ヶ原の直前に発覚した、兄のもう一つの「生」の証。

自分とお愛の仲を祝福してくれていたその裏で、兄は別の女を抱き、徳川の血を繋いでいた。その人間臭い「揺らぎ」が、今、替え玉となった五郎の首を真綿で締めるように苦しめる。

(兄上……貴方は救い難いほどお優しく、そして……残酷なお方だ)

兄が遺した慈愛という名の「嘘」を守るために、自分は「兄の家族」を、自らの手でバラバラに壊さねばならない。

そして、五郎の家族になるはずだった彼女も。

「……お愛は。お愛はどうした。彼女も、同じように消したのか」

五郎が問うと、数正は視線を逸らした。

「お愛殿も……同様にございます。秘密を知る者は、この世に一人として残してはなりませぬ。……殿、貴方様を『家康』にするために、私は鬼になりました」

数正が、お愛を寺に逃がしつつ、「子供の存在を一年隠して瀬名を激昂させ、五郎への執着を断ち切らせる」という三重の策を講じていたことを、五郎はまだ知らない。

五郎にとって、数正は「家族になってくれた兄の思い出さえも汚し、愛する人を殺した憎き忠臣」となった。

(兄上がくれた幸せな日々を、私がこの憎しみで殺していくしかないのか)

その絶望だけが、五郎を「甘さのない怪物」へと変えていく。すべては、数正の描いた、あまりに哀しい「偽りの主君」育成の図であった。


その頃、失意の底で岡崎へと向かう瀬名の列を、遠くの藪から見つめる影があった。

夜陰に乗じ、瀬名が乗る籠の傍らに一人の男が歩み寄る。

「……徳川の正室ともあろうお方が、無残な扱いにございますな」

瀬名がハッと顔を上げると、そこには武田の透波すっぱが不敵な笑みを浮かべて立っていた。

「……お主、何者じゃ」

「傷ついた御心に寄り添う者。築山様……あの偽りの家康に代わり、真に徳川を救う道があるとは思いませぬか?」

男が差し出した一通の文には、武田勝頼の印が押されていた。

絶望に震える瀬名の瞳に、危うい光が宿り始める。

それは、徳川という大樹が内側から腐り落ちていく、崩壊の序曲であった。




【幕間:石川数正の独白 —— 泥を啜る忠義】

浜松城の夜は、どこまでも深い。

主君・徳川家康が三方ヶ原で果てたあの日から、私の時間は止まったままだ。あるいは、あの日から私は「人間」であることを捨て、徳川という器を守るための「装置」に成り果てたのかもしれぬ。

目の前にいる男――五郎殿を見るたび、私の胸は裂けるような痛みに襲われる。

殿(家康公)と瓜二つの顔。七年前、寺から連れてきた時の、あの不安げで、しかし家族を得た喜びに瞳を輝かせていた少年の面影。

殿が最も慈しみ、その幸せを願っていたはずの弟。その五郎殿から、私は名前を奪い、恋人を奪い、さらには「心」をも奪おうとしている。

「お愛は……始末した」

あの時、私が吐いた嘘は、私の喉を焼く猛毒のようであった。

五郎殿の瞳から、殿が与えた「光」が消え、底知れぬ絶望が宿るのを見た時、私は己が地獄に落ちることを確信した。

だが、それで良いのだ。

五郎殿が「五郎」としての情に流されれば、この巨大な嘘は一日と持たずに崩れ去る。織田に、武田に、徳川の家臣たちに主君の死が知られれば、三河も遠江も血の海に沈む。

それを防ぐためには、あの心優しい青年を、血も涙もない「怪物」に仕立て上げるしかなかった。

「殿、貴方様を『家康』にするために、私は鬼になりました」

口に出した言葉は、五郎殿を突き放すための冷徹な刃だ。

だが、その実、私はお愛殿を密かに寺へ逃がした。殿が守りたかった弟の幸せを、せめて形だけでも残しておきたかったという、私の致命的な「甘え」ゆえに。

いつか、この嘘がすべてを飲み込み、徳川が泰平の世を迎えた時。

その時、五郎殿にすべてを明かそう。そして、この身を以てすべての罪をあがなおう。

五郎殿は私を憎んでいる。それで良い。

その憎しみが、影を光に変える糧となるならば。

たとえ私が歴史の闇に消え、裏切り者の名を着せられようとも、この「家康」という壮大な虚構だけは、私が墓場まで守り抜いてみせる。

今宵もまた、五郎殿は懐の『元康』の紙を握りしめているのだろうか。

その背中に向かって、私は声に出さぬ詫びを繰り返す。

私は、鬼だ。殿を裏切り、その弟の人生を蹂躙した、救いようのない鬼である。

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