【第十一話:他人の貌(かたち) —— 信康の孤独と毒の囁き】
岡崎城。
嫡男・信康は、深夜の道場で一人木刀を振っていた。
汗が飛び、荒い息が静寂を切り裂く。だが、どれほど身体を動かしても、胸の内の霧は晴れなかった。
(……あの人は、本当に私の父上なのだろうか)
三方原から戻った父・家康は、何かが決定的に違っていた。
かつての父は、戦の話をするとどこか情けなく笑い、「信康、お前は私のような臆病者になるなよ」と、節くれだった温かい手で頭を撫でてくれた。
だが、今の父は違う。
その瞳は常に何かを警戒し、息子である自分にさえ、決して心の奥を見せようとしない。
あの日、浜松城で母と激突した時の、あの氷のような冷徹な声。
「……父上、あなたは変わってしまわれた。まるで、他人のように」
信康が呟いた時、背後から冷ややかな声がした。
「いつまでそうして、子供のように拗ねているのですか。見苦しい」
振り返ると、そこには妻・五徳が立っていた。織田信長の娘。その瞳には、夫への愛よりも、父・信長譲りの傲慢さと徳川家への軽蔑が混じっている。
「五徳……。夜更けに何用だ」
「母上(築山殿)が、また私の侍女を詰問したそうです。織田のスパイではないかと。……殿、貴方は徳川の主となるお方。いつまであの狂った母上の肩を持つのですか」
「母上を悪く言うな!」
信康が叫ぶが、五徳は鼻で笑って去っていく。
母・築山殿は、織田の血を引く五徳を敵視し、信康を自分の味方に引き込もうと執拗に迫る。
父は寄り付かず、母は狂気を孕み、妻は冷淡。
信康にとって、岡崎城はもはや安らぎの場ではなく、息の詰まる檻だった。
数日後、岡崎の町外れ。
信康が鷹狩りの帰りに立ち寄った茶屋で、一人の男が近づいてきた。
身なりはしがない行商人だが、その眼光には尋常ならざる鋭さがある。
「……信康様。お労しいことにございますな」
「何者だ」
信康が身構える。男は不敵に笑い、懐から一通の書状を差し出した。
それは、武田家の重臣からの密書だった。
「浜松の家康殿は、もはや三河の主ではございませぬ。あの御方は、織田信長の言いなりとなり、徳川の誇りを売り渡した。……信康様、貴方様こそが、真の徳川を継ぐべきお方だ。我ら武田は、そのための力を貸し惜しみませぬぞ」
「……黙れ。父上を侮辱するか」
「ふふ……本当に、あの方は『お父上』ですか? あの冷酷な男が?」
男の言葉が、信康の心の最も柔らかい部分を突き刺した。
三方原の夜、あの別邸で起きた「虐殺」の噂。
そして、自分を冷たく突き放す今の父。
「母上も、嘆いておられます。……『今の殿は、私の知っている殿ではない』と」
信康の拳が震える。
(……母上も、同じことを思っておられるのか。ならば、やはり……)
「信康様。信長公と家康殿は、いずれ貴方様と築山様を邪魔者として排除するでしょう。その前に、我らと共に新しい徳川を作ろうではございませぬか」
闇の中から伸びてきた武田の手。
孤独に耐えかねた少年は、その手が毒であると知りながら、振り払うことができなかった。
浜松城の闇が、一際深く濃くなったように感じられた。
五郎の背後に、音もなく服部半蔵が姿を現す。
「殿。伊賀の者が、不穏な動きを捉えました」
「……申せ」
「岡崎の築山殿、および信康様のもとに、武田の透波が出入りしております。……信長公の娘、五徳様もこれに感づき、岐阜へ文を送ろうか思案しておる様子」
五郎の傍らにいた数正の顔が、苦渋に歪んだ。武田の調略、そして織田の監視。最悪の糸が、岡崎という場所で絡み合おうとしていた。
「数正、どうすればいい」
五郎が問う。数正は沈黙の末、搾り出すように答えた。
「……一度、釘を刺さねばなりませぬ。これ以上、織田に疑念を抱かせては徳川が潰れます。毒を以て毒を制す……殿、ここは『怪物』として岡崎へお入りくだされ」
数日後、五郎は数正と数人の供だけを連れ、密かに岡崎城へ向かった。表向きは親子の対面であったが、その空気は冬の風よりも冷たかった。
対座した瀬名と信康に対し、五郎はあえて「兄」としての優しさを一切封印し、冷徹な仮面を被った。
「信康。近頃、城内に得体の知れぬ風が吹いているようだが……心当たりはあるか」
五郎の声は低く、地を這うような威圧感を放っていた。信康が息を呑むのを、五郎は冷めた目で見つめる。
「武田と通じることは、すなわち信長公への反逆。それが何を意味するか、まさか分からぬとは言わせぬぞ。……五徳殿の目は節穴ではない。徳川を滅ぼしたくば、そのまま武田の甘い言葉に酔いしれるがいい」
傍らで聞いていた瀬名が、激しく肩を震わせた。
「殿……! 滅ぼすとは何事でございます。我らはただ、この苦境を……」
「黙れ」
五郎の短く鋭い一言が、瀬名の言葉を叩き斬った。
「二度目はない。次に透波の影が岡崎に落ちれば、私は迷わずこの地を切り捨てる。……ゆめゆめ、私の忍耐を試すな」
その場に凍りつくような沈黙を残し、五郎は背を向けた。
数正の意図通り、一度は力で武田との糸を断ち切らせたはずだった。だが、去り際に五郎が見た瀬名の瞳には、恐怖ではなく、かつてないほどの深い絶望と、憎悪の火が灯っていた。
浜松へ戻る道中、五郎の心は血を流していた。脅せば脅すほど、守りたかった家族の心は、自分から、そして徳川から離れていく。
浜松城へ戻った五郎を待っていたのは、暗がりに座す数正の、ひび割れたような声であった。
「……殿。あのお二人も、今の面体に恐れをなし、暫くの間は静かになさるでしょう。……なれど、それも長くは持ちませぬ。人の怨嗟というものは、一度火がつけば、もはや脅し程度で消えるものではございませぬから」
数正は深く首を垂れ、絶望を噛み締めるように言葉を継いだ。
「一度は引き離せても、またすぐに闇が寄って参りましょう。……あのお二人を、そして徳川を救う道は、もはや一つしかございませぬ」
その「一つしかない道」が何を意味するか、五郎には分かっていた。
「……そうか。分かっている、数正」
五郎は、震える拳を袖の中で隠した。
自分の兄が命を賭して守りたかった家族を、自分という偽物の「家康」が、この手で葬らねばならないという、残酷な運命の足音が聞こえていた。




