【最終話(大終幕)後編:永遠の共犯者たち】
数日後。阿茶は密かにお愛の眠る寺を訪れた。
あらかじめ住職に頼み、お愛の墓石の傍らに、小さな、しかし深い穴を掘らせておいた。
阿茶は灰の入った小箱を、その温かな土の中へと安置した。
「殿……いいえ、五郎様。これでようやく。誰に邪魔されることもなく、ずっと一緒にいられますね」
墓前に供えられた白檀の香りが、春の風に乗り、隣に眠るお愛の魂を優しく撫でるように消えていった。
その後、駿府城の一角。
南光坊天海(三成)と阿茶局が、静かに言葉を交わしていた。
つい先日、本多正信が五郎の後を追うように、静かに息を引き取ったという。
「……正信殿も、役目を終えられたのでしょうな」
天海は、かつての石田三成の頃には決して見せなかった、穏やかな笑みを浮かべた。
「あの御仁は、五郎殿という稀代の役者を輝かせるための、唯一無二の演出家。役者が舞台を去れば、書き手もまた、筆を置くしかなかったのでしょう」
天海は窓の外を見つめた。
公式な歴史には、不滅の神「東照大権現」の名が刻まれた。中身の「五郎」は誰にも知られず、お愛の隣で静かに眠る。それが三人の共犯者たちが算盤を弾き、台本に書いた「正解」であった。
だが、天海の心の中に、かつての自分であれば「非合理的」と切り捨てたであろう、奇妙な気まぐれが芽生えていた。
「……阿茶殿。算盤を弾くのを、やめてみようと思うのです」
天海は机に向かい、徳川の正史とは別の、古い形式の家系図に筆を走らせた。
それは、数正がかつて自分に五郎の正体を明かしたように、後の世の誰かがいつか気づいてくれるかもしれないという、あまりに淡い、しかし温かな希望であった。
『松平五郎元康』
『天文十八年(一五四九年)八月十五日、三河に生まる。公(家康)の異母弟なり。幼きより慈悲深く、常に薬草を弄し、奥深くにて静かに過ごす。公、その清廉なる気質を愛で、かつて自ら名乗りし「元康」の名を授け、徳川の連枝として歩むことを許さる。元和二年四月十七日、駿府にて公と時を同じうして卒す。……その生涯、公の影に徹し、泰平の礎を薬の如く支えたり。後世、公の奇跡を語る者は、この「もう一人の元康」の存在を忘るるべからず』
「……見事な嘘にございますな、治部殿」
阿茶がそう呟くと、天海は満足げに頷いた。
「いいえ。これこそが、我らが見た唯一の真実にございます」
後に天海は、日光東照宮の奥深く、歴代の将軍さえも容易には立ち入れぬ文献の中に、この一節を認めた秘録を忍ばせた。
それは、五郎が守り抜いた「泰平の世」が続く限り、この国の根幹に静かに眠り続ける「祈り」の証明であった。
そしてその下にひっそりともう一冊。
『影向之次第』を添えて。
豪華絢爛な東照宮の彫刻の影で。
お愛の墓の隣の、小さな灰の中で。
五郎は、ようやく「家康」という名の重い鎧から解き放たれ、本来の自分を取り戻していた。
城下からは、今日も子供たちの健やかな笑い声が聞こえてくる。
その声こそが、五郎という名の男が、歴史という地獄の中で必死に薬を煎じ続け、作り上げた唯一の答えであった。
白檀の香りは、今もどこかで、静かに漂っている。
完




