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『弟』〜家康は三方ヶ原で亡くなっていた。石川数正が仕掛けた徳川最大の虚構〜  作者: 滝丸
第三部:『影の昇華編』

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【最終話(大終幕)前編:あかつきの空へ還る灰】

元和二年(一六一六年)、初夏。駿府。


「東照大権現」の遺体は、本人の遺言通り久能山へ、そして後に日光へと、国家を護る「神」として手厚く葬られた。

だが、その喧騒から遠く離れた場所で、阿茶局はもう一つの、誰にも知られてはならぬ「真の遺言」を遂行すべく、一人静かに文箱を開いた。



「これだけは、お前自身の手で燃やして灰を寺へ届けてくれ」

まだなんとか起き上がれた頃の五郎。

阿茶に遺言を託した時の五郎は天下人のものではなく、どこか寂しそうで、同時にすべてを終えた安堵に満ちていた。


阿茶はまず、一枚のひどく古びた紙を取り出した。 指先に触れた瞬間、思わず手から落としそうになるほどの冷たさと重みが彼女を襲う。 それはもはや紙というより、泥と血が固まった肉片のようであった。四十四年前、三方ヶ原で石川数正から手渡された、すべての始まりの証である。


阿茶は目を凝らす。 そこにはかつて『元康』という二文字が書かれていたはずだった。

だが、兄・家康や長男・信康の返り血を吸い、雨に打たれ、五郎が絶望の中で握りしめ続けたその文字は、今はもう判読不能なほどに黒ずみ、滲み、無残に潰れている。


「……これを、四十四年もの間。誰にも見せず、お一人で」


文字すら読めぬその紙は五郎の失われた未来であり、兄の唯一の形見であり、「徳川家康」という檻であった。阿茶はその紙のしわに、五郎が仮面を維持するためにすり減らした魂の破片を見た気がした。

阿茶は火を灯した。 黒ずんだ紙は、重い煙を上げて燃えていく。 燃え尽きる直前、魂が天に還るかのように白い煙が一瞬出て、灰へと崩れた。

五郎は「神君・家康」という器から解き放たれ、ようやく名を持たぬ一人の男へと立ち返った。



次に阿茶は、もう一枚の紙を広げた。 そこには、お愛の凛とした筆跡で、四十四年前のあの日、浜松の別邸で詠まれた辞世の歌が記されていた。


あかつきの 空にしづめる 月影の

山の隠れて 君を照らさむ


(夜明けに沈む月の光のように、私は姿を消しましょう。姿は見えずとも、影となった貴方を照らし続けるために……)


阿茶は震える指で、その紙の端に書き添えられた文字を追った。 死の直前、五郎が最後の力を振り絞って記した、もう一つの歌。


嬉しやと 再び醒めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空


「……ああ」 阿茶は息を呑み、窓の外に広がる駿府の空を見上げた。 白々と明けていく青磁色の空には、消え残る白い月が、今にも溶け入りそうなほど淡く山の端に掛かっている。

世はこれを、天下人が人生を悟った高潔な句として語り継ぐだろう。 だが、こうして二つの歌を並べた時、そこには一人の男が四十四年かけて届けた、ただ一通の返歌こたえがあった。


家康として演じきった、地獄のような「浮世の夢」。 それを終えて、ようやく仮面を脱ぎ、自分自身に戻るための「目醒め」。 そして彼が真っ先に向かったのは、自分という影を照らし続け、先に暁の空へと沈んでいった愛しい『月』が待つ場所だったのだ。


「……五郎様。ようやく、お返しいたしますね。本当の貴方を、あの方の元へ」


二枚の紙が重なり、静かな火に包まれる。

徳川を縛り続けた血塗られた呪縛と、時を超えて届けられた恋文。

立ち上る清らかな煙は、折しも窓から差し込んだ暁の光に溶け、吸い込まれるように天へと昇っていった。阿茶はその灰を、愛おしそうに小箱へと納めた。



その頃、五郎の遺骸を納めた棺の中。 主君の死を悼む静寂のなかで、老いたその掌は、一袋の古い香袋をしっかりと握りしめていた。 もはや香りは絶え、ぼろぼろになっていてもなお、それは彼が「五郎」であった唯一の証として、ともに永遠の眠りについていた。

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