【第二十六話:白檀の彼方へ —— 名もなき男の帰還】
元和元年(一六一五年)、秋。
大坂の陣を終え、天下に「元和偃武」という永遠の静寂が訪れたのと時を同じくして、五郎の体からは急激に力が抜けていった。
四十四年前、三方ヶ原で兄・家康の身代わりとなったあの日から、彼を支えてきたのは「嘘を真実に変えねばならぬ」という凄まじい執念だけであった。
だが、仕組みは完成し、秀忠は立派な怪物となり、子供たちの笑い声が街に溢れた。
役目を終えた五郎という「器」は、精も根も尽き果てた古い人形のように、静かに朽ち始めていたのである。
元和二年(一六一六年)、四月。駿府城。
城外では、五郎が作った「泰平」を象徴するように、穏やかな春の風が桜の花びらを舞い上げていた。
死の淵にある五郎には、もはや万民を平伏させてきた「天下人」としての威光はなく、ただの小さく痩せた老人となっていた。
「……阿茶。天海。……人を、下がらせよ。誰一人、入れるな」
掠れた声で五郎が命じる。阿茶は深く頷き、近習たちをすべて退かせた。
静まり返った寝所。そこには、徳川家康という巨大な虚像を四十年以上にわたって共に作り上げ、死後の祭祀から歴史の書き換えまですべてを託された、二人の「共犯者」だけが残された。
「……阿茶。……天海。疲れたな。……あとのことは、すべて、話してある通りだ。……お前たちなら、上手くやるだろう」
五郎は、懐からもうボロボロになったお愛の香袋を取り出し、震える指でなぞった。
「三方ヶ原で兄上の身代わりになってから、どれほど経った……。私は、ずっと嘘を吐き続けてきた。信長を欺き、秀吉を化かし、秀忠にまで怒号を浴びせ……。数正に言われるがまま、身に覚えのない子らの父親になったふりをして……」
五郎の目から、一筋の涙がこぼれ、白い枕を濡らす。
「……私は、死んでもなお『家康』として、神として祀られるのだな。五郎という名は、どこにも残らぬ。私の骨は久能の山に埋められ、永遠にこの国の重石として、偽物の主君を演じ続けねばならぬのか……」
「……殿」
阿茶は、五郎の冷たくなった手を、両手で包み込んだ。
「……お愛様との約束、果たされましたね。貴方様は、世界で一番お優しい『徳川家康』になられました。……ですが、今はもう、よろしゅうございます」
天海もまた、数珠を握る手を震わせ、深く頭を垂れた。
阿茶は、五郎の耳元で、その「禁忌の名前」を、震える声で囁いた。
「……お疲れ様でした。……五郎様」
その瞬間、五郎の瞳に、パッと光が宿った。
将軍でもなく、天下人でもなく、ただの「弟」であり、一人の「男」であった自分の名前。その響きに、五郎の顔から「怪物」の面影が消え、かつて別邸でお愛と出会った頃の、純朴な少年の顔が戻った。
「……ああ。……呼ばれた。……ようやく、呼ばれた……」
すると、部屋の中に、どこからともなく懐かしい白檀の香りが満ちてきた。
五郎の霞む視線の向こうに、若き日のお愛が、あの日と同じ穏やかな笑みを浮かべて立っているのが見えた。
(……五郎様。ようやく、帰ってこられましたね)
五郎は、満足げに微笑んだ。
遠い闇の向こうで、石川数正が「やれやれ、お芝居の終幕ですな」と、いつものように嫌味を言いながら、しかし誇らしげに笑っている気配がした。
「……あとのことは、頼むぞ。……江戸の長丸には……江を、大事にせよと伝えてくれ……」
五郎の手から、力が抜けた。
お愛の香袋が、畳の上に静かに落ちる。
元和二年四月十七日。徳川家康、崩御。
歴史は彼を「東照大権現」という不滅の神として記したが、その魂は、一人の女の白檀の香りに導かれ、名もなき「五郎」として、ようやく地獄のような嘘から解放されたのである。
城外では、五郎が守り抜いた泰平の世を祝うように、桜が満開に咲き誇っていた。




