【第二十四話:落日の残り火 —— 仕組みの完成】
元和元年(一六一五年)、五月八日。
大坂城の天守から立ち昇る黒煙が、初夏の青空を汚していた。
かつて太閤・秀吉が黄金で飾り立て、日の本の中心と誇った巨城は、今や崩れゆく巨大な火葬場と化していた。
徳川の本陣、その奥に置かれた屏風の陰で、五郎は力なく椅子に身を預けていた。
「……痛みますか」
静かな声と共に、阿茶局が濡れた布と薬箱を持って現れた。五郎が差し出した右の掌は、真田幸村の槍を受け止めた際、穂先が深く食い込み、無残に裂けていた。血は止まっているものの、その傷跡は五郎が「徳川家康」という仮面を脱ぎ捨て、一人の「五郎」として抗った証として刻まれていた。
阿茶は溜息をつき、手慣れた手つきで傷口を清め始めた。薬がしみるのか、五郎の指先がわずかに震える。
「……無茶もほどほどになさいませ。天下の主が、御年を考えれば、素手で槍を受けるなど正気の沙汰ではございませぬぞ。本多正信殿など、腰を抜かして今も仏頂面で座っております」
阿茶の、叱り飛ばすような、しかし慈しみに満ちた言葉に、五郎は力なく苦笑した。
「……すまぬ。我ながら、どうかしておった」
阿茶が丁寧に包帯を巻き進める中、五郎は遠く燃える城の煙を見つめ、掠れた声で続けた。
「……だがな、阿茶。どうも、千を見たら…… どうにも堪えられなんだ。あの子の泣き顔があまりにお愛に似ていて……私の喉元に、お愛がせり上がってきてな」
五郎の脳裏には、数時間前の出来事が鮮明に焼き付いていた。
救出された千姫に「お愛」の幻影を見て、一度は崩れかけた自分。その直後に現れた真田幸村という、死を恐れぬ純粋な武人。
あの時、五郎が槍の前に踊り出たのは、家康としての戦略ではない。お愛が愛した泰平への祈り、そして今また千姫を地獄に置き去りにしようとしている自分への、やり場のない憤りゆえでもあった。
阿茶は手を止め、五郎の瞳をじっと見つめた。
「……貴方様は、どこまでも正直な方。その優しさが、四十年間、私や正信殿をこの『嘘の世』に繋ぎ止めてきたのでございます」
阿茶は白布を固く結ぶと、その血の滲んだ五郎の手を、包み込むように両手で握った。
「殿。……もう、十分でございます。これ以上の無理は、あの方もお望みにはなりますまい」
大坂城内では、秀頼が淀殿と共に自刃したという。あの汚れなき瞳をした若者が、この炎の底で灰になった。五郎の胸を去来するのは、勝利の歓喜ではない。底知れぬ空虚さと、ようやく約束を果たしたという重い安堵であった。
本陣の中、重臣たちは揃って青ざめ、平伏していた。彼らの視線は、五郎の傍らに佇む異形の老僧・天海に注がれている。
「……あの御仁は、一体」
「大御所様をお守りしたあの業、ただの僧とは思えぬ。もしや、伊賀か甲賀の……」
重臣たちの間に、天海の正体を巡る疑念が渦巻いていた。
そこへ、指先で黒革の紐を弄びながら、本多正信が這い寄ってきた。その口元には、いつもの意地の悪い笑みが張り付いている。
「皆々、案じますな。……天海殿は、大御所様が密かに育て上げられた『特別な目』。その素性を探るは、徳川の根幹を暴くも同義。……して、此度の不始末、大御所様を死地に追いやった貴殿らの咎、私は不問にせよと殿に奏上いたしまする。……ただし、今日のことは『見なかったこと』にする。……それが、貴殿らの命と引き換えの誓約にございますな?」
正信の冷徹な脅しに、重臣たちは息を呑み、力なく頭を下げた。幸い、天海の素顔を間近で見たのは、霧の中に消えた真田幸村のみ。こうして、石田三成という名の真実は、正信の手によって再び深い闇の中へと葬られたのである。
その後、正信は自室に籠もっていた。机の上には、彼が心血を注いで書き上げてきた徳川の正史が広げられている。
「……ひどい。ひどい台本崩しにございますぞ」
正信は、五郎が幸村の槍を素手で受け止めた箇所を、忌々しげに墨で塗り潰した。
「影が表に出るなど、演出の破綻。……されど、あのような神がかりを見せつけられては、もはや書き換えぬわけにはいかぬ」
正信は、五郎を「一人の男」から「神・東照大権現」へと格上げするべく、歴史の言葉を綴り直した。それは、正信にとっても想定外の、しかし最も美しい物語への昇華であった。
五郎は、戦後処理の指揮を執る秀忠の背中を見つめていた。秀忠は、淀殿を救えなかった悲しみを押し殺し、冷徹かつ迅速に、豊臣の残党狩りと戦後の法度を整えていた。
(……長丸。お前は、いつの間にこれほどまでに立派になった)
五郎の胸に、誇らしさと、一抹の寂しさが過った。
家康という個人のカリスマに頼らずとも、秀忠という「仕組み」が、これからの徳川を回していくだろう。五郎が一生をかけて作り上げた「装置」が、ついに独り歩きを始めたのである。
「……よかった。これで、私はようやく退ける」
大坂城は、数日間にわたって燃え続けた。
かつての栄華を象徴する灰が、夏の風に乗って五郎の頬を撫でていく。
五郎は、阿茶に手当てされた右手の痛みを噛み締めながら、懐のお愛の香袋をそっと握りしめた。
(お愛……見てくれ。大坂城が燃え尽きた。……これで、私の嘘も、もうすぐ終わりにできる)
空は、どこまでも澄み渡っていた。
徳川家康という巨大な虚像の向こう側に、一人の男・五郎としての平穏な死が、ようやく見え始めていた。




