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『弟』〜家康は三方ヶ原で亡くなっていた。石川数正が仕掛けた徳川最大の虚構〜  作者: 滝丸
第三部:『影の昇華編』

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【第二十三話:嘘の果て、祈りの真実 —— 緒の導き】

慶長二十年(一六一五年)、五月七日。大坂、茶臼山ちゃうすやま周辺。

天王寺・岡山の平野は、赤備えの真田隊が放つ猛火のごとき熱気に包まれていた。

「家康の首を取れ! 徳川の世を終わらせよ!」

真田左衛門佐幸村率いる精鋭たちの咆哮が、五月の空を震わせる。

防波堤たる徳川の軍勢は次々と決壊し、誇り高き旗本たちは「もはやこれまで」と馬印を投げ捨て、無様に潰走を始めていた。


本陣を包むのは、絶望という名の静寂であった。

その中心で、五郎はどっしりと床几しょうぎに腰を下ろしていた。逃げ惑う雑兵の足音も、遠くで響く鬨の声も、今の彼には遠い川のせせらぎのようにしか聞こえない。


「……もはやこれまでか。私が出よう」

五郎が静かに腰を浮かせた瞬間、本陣の空気は凍りついた。

「な、何を……何を仰いますかッ!」

真っ先に声を上げたのは、本多正信であった。

常に不敵な笑みを絶やさぬ稀代の策士の顔が、今は見たこともないほどに蒼白そうはくに染まっている。

「なりませぬ! 殿、貴方は『器』に過ぎぬのだ! すわって……ただ、そこに家康として坐っておられよ! 影が表に出るなど、私が書いた台本かきつけには一文字もございませぬぞ!」

正信は、指にかけていた黒革の紐——鷹の緒を、震える指で必死に手繰り寄せようとした。だが、焦りからか紐は複雑に絡まり、慣れ親しんだ「あやとり」の形を成さぬまま、無様に指へ食い込んでいく。


隣に立つ南光坊天海もまた、数珠を握る拳を白く震わせ、悲鳴に近い声を上げた。

「五郎殿……! 死んではならぬ! 貴殿が死ねば、我らが命懸けで積み上げたこの『嘘』を、誰が継ぐというのだ!」


だが、五郎はそれらを静かに、しかし抗いようのない力で振り払った。

「……正信、天海。私は、もう逃げぬ。あの日、お愛と交わした約束……彼女が、この空から見ているのだ」

五郎は、徳川家康としての重き兜を脱ぎ捨てた。

一人の男、五郎として。赤き死神の前に、彼は一歩を踏み出した。

安藤直次や阿部正次らはその気迫に気圧され、ただ立ち尽くす。

五郎はもはや老いた体ではない。三方ヶ原で迷わず「空城の計」を指示したあの時の、若き日の青年のように、その背筋を真っ直ぐに伸ばした。



「家康ッ!! 覚悟ーーー!!」

真田幸村が、風を斬って突撃してくる。その瞳には、父・昌幸の無念、豊臣の運命、そして徳川の首のみを求める純粋で苛烈な執念が宿っていた。

必殺の槍が、五郎の喉元をめがけて最短距離で突き出される。


その瞬間、世界から一切の音が消えた。


五郎は、避けることも、剣を抜くこともしなかった。

ただ静かに、修行僧が祈りを捧げるかのように両の手を広げ、突き出された槍の穂先を、素手でがっしりと掴み取ったのである。

肉が裂け、鮮血が槍の柄を伝い、五郎の腕を赤く染めていく。

だが、その瞳は一点の曇りもなく、幸村をじっと見据えていた。


(……重い)


幸村は、息を呑んだ。

槍から伝わるこの重みは、何だ。

天下を貪ろうとする妄執でもなければ、老いさらばえた権力者の醜き執着でもない。これは……数多の死者を背負い、泥を啜りながら、ただひたすらに安寧を願い続けてきた者の、祈りの重さだ。

幸村は、五郎の瞳を覗き込んだ。そこには戦人の抱く、露骨な『強毒ごうどく』がない。


(……違う。こいつは、家康ではない)


俺の知る徳川家康は、もっと狡猾で、もっと貪欲な、乱世の化け物のはずだ。

だが、目の前のこいつはどうだ。瞳の奥に、己がおらぬ。

あるのは、戦なき世を願う、狂おしいほどの『くう』。

「……ああ、そうか。あんたは、家康という器を借りて、この地獄を終わらせようとしている、ただの偽りか。……だが、皮肉なもんだな。本物の家康が束になっても届かぬほどの『覚悟』を、この偽物が持っていやがる」



その時、静寂を切り裂くように、一人の男がなりふり構わぬ咆哮と共に駆け寄ってきた。

「……退かれよ! 真田殿ッ!!」

南光坊天海である。彼は手に持った錫杖しゃくじょうを、あたかもかつての愛刀を振るうかのように鋭く一閃させた。


「ガキンッ!」


鋭い金属音が、止まっていた世界の音を無理やり呼び戻す。

天海の錫杖が幸村の槍を叩き落とし、五郎の前に、その痩身を割り込ませた。


激しい動きの中で、天海の頭巾が風に煽られて脱げ落ちる。

幸村は、目前に現れた僧の顔を凝視した。

鋭い鼻筋、冷徹なまでに理知的な瞳。そして、その奥に燃える、忘れるはずもない「義」の残り火。


「……その眼差し、その声。忘れるはずがない。……治部じぶか。石田三成、貴様なのか」


幸村は愕然とした。死んだはずの男が、名を捨て、姿を変え、仇敵であるはずの男を命懸けで守っている。


「……いや、違うな。こいつが守っているのは家康ではない。その中にいる、あの『祈る男』だ」


幸村は、槍を掴んでいた五郎の血まみれの手と、必死に彼を庇う天海の姿を交互に見た。

その矛盾した光景が、幸村の中で一つの答えとして結実する。


「……ようやく、解った。なぜ、この偽物が、自ら俺の槍の前に立ったのか。あんたたちは、二人して壮大な『嘘』を吐き続けてきたのだな。家康が死に、三成が消えたこの世界で、あんたたちは二人で一つの『家康』を創り上げた。武士の矜持も、歴史の真実も、すべてを捨てて……ただ、この国から『俺のような戦人』を消し去るために」


幸村は、ふっと自嘲気味に笑うと、静かに槍を収めた。

「……見事な嘘だ、治部。あんたの選んだ道だ、最後までその嘘を貫いてみせろ。……戦は、俺の負けだ。……達者でな、偽物共」



赤備えの炎が、霧の向こうへと去っていく。

本陣に残されたのは、荒い息をつく天海と、血の滴る手を静かに見つめる五郎。

その背後で、正信が指に食い込んでいた鷹の緒を、震える手でゆっくりと解いた。

複雑に絡み合った革の紐は、もはや元の「あやとり」の形を成していなかった。

「……ひどい。ひどい台本崩しにございますぞ、殿……」

正信は膝をつき、絞り出すように笑った。

だが、その瞳には、恐怖を通り越し、自らが創り上げた「偽物の家康」が、歴史を、そして神話をも超える「本物の神」へと変わった瞬間への、狂気じみた歓喜が宿っていた。

五郎は、遠く燃える大坂城を見つめ、心の中で呟いた。

(……お愛。これで、本当に終わるぞ。戦のない、お前の望んだ世が)

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