【第二十二話:幻影の決別 —— 太陽を隠す雲】
慶長二十年(一六一五年)、五月。
大坂の空は、豊臣という名の太陽の終焉を告げる赤黒い炎と、鼻を突く硝煙に塗り潰されていた。
徳川の本陣。猛火に包まれる天守から救出された千姫が、泥と煤にまみれながら、祖父である五郎の前に姿を現した。
「……父上、大御所様。どうか、秀頼様と母君様の命だけは、お助けくださいませ。この通りにございます……!」
縋り付くように平伏し、涙ながらに訴えるその声を聞いた瞬間、五郎の全身に戦慄が走った。
(お愛……なのか)
乱れた髪、涙に濡れた白皙の頬、そして自分を射抜くように見上げるその眼差し。それは、かつて五郎がこの世で最も愛し、そして失った女性・お愛の、あまりに鮮烈な生き写しであった。
二十六年前、浜松城の木漏れ日の中で微笑んでいたあの日のお愛が、今、地獄の戦火の中から蘇り、自分に許しを請うている。
その凄まじい幻影は、五郎が数十年かけて張り付けてきた「徳川家康」という冷徹な仮面を、音を立てて粉々に砕き散らした。
お愛、お愛、お愛……!
「……わかった。案ずるな、おあ……千。そこまで申すなら、私は……」
五郎の手が、無意識に千姫の肩へと伸びた。
数正や三成と誓った「泰平のための非情」さえも、この一瞬、お愛への狂おしい思慕という濁流に飲み込まれ、形を失おうとしていた。五郎はただの一人の男に戻り、お愛への思慕だけのために、歴史をねじ曲げようとしていたのである。
「……なりませぬ」
その甘美な沈黙を切り裂いたのは、将軍・秀忠の、氷のように冷ややかな声であった。
五郎が弾かれたように顔を上げると、そこには普段の柔和さを微塵も感じさせない、峻烈な「将軍」の貌をした息子が立っていた。
「千、見苦しいぞ。豊臣を生かしておけば、この国には再び戦の火種が燻り続ける。それは、父上が命を懸けて築かれた泰平を、自ら瓦解させるに等しい愚行。……秀頼殿の助命は、断じて許さぬ」
「父上……! お願いにございます、どうか、どうか……!」
秀忠の足元に縋り、なおも慟哭する千姫。だが、その激しいやり取りを傍らで見つめていた五郎は、ある微かな「違和感」に襲われ、硬直した。
(……違う)
千姫がお愛に似ているのは、その表象だけであった。
泣き叫び、秀忠を睨みつけるその瞳の奥には、お愛が持っていた静謐な慈悲ではなく、織田や浅井の血を引く者特有の、烈火のごとき激情が宿っていた。
そして、千姫が五郎の傍らをすり抜けた瞬間、彼の鼻腔を掠めたのは、お愛が常に纏っていたあの清らかな「白檀」の香りではなかった。それは、大坂城の贅を尽くした華やかさと、戦火の脂が混じり合った、見知らぬ濃密な残り香であった。
五郎の脳裏から、執着という名の霧が晴れていった。
(……お愛ではない。この子は、私の愛した『月』ではないのだ)
その瞬間、五郎の魂は冷徹な「正気」へと引き戻された。目の前にいるのは、救えなかった過去の亡霊ではなく、今の徳川が完遂せねばならない「歴史」という名の無慈悲な現実であった。
五郎は、震える千姫の肩を、静かに、しかし拒絶の意を込めて強く押し止めた。
「……千。もう、よい。……将軍の申す通りだ」
五郎の声は、いつもの、低く重厚な「徳川家康」のものに戻っていた。
「お前が救い出されたのは、徳川の情ゆえではない。これからの泰平の世を繋ぐために、お前の命が必要だったからだ。……秀頼殿のことは、諦めよ。それが、戦国という長い夜を終わらせるための、最後の代償だ」
千姫は、裏切られたという絶望に目を見開き、家臣たちに引きずられるようにして連れ去られていった。遠ざかっていく彼女の叫び声と、その後ろ姿。それさえも、お愛とは似ても似つかぬ、一人の誇り高き豊臣の正室のそれであった。
独り残された本陣。五郎は、秀頼への切腹を命じに外へ向かう秀忠の背中を、ただ見つめていた。
迷いなく、冷徹に、徳川の安泰のために「最悪の決断」を下しにいく息子。かつて妻に怯え、父に泣きついていたあの青年は、もうどこにもいない。
(……長丸。お前の中にも、やはり私と同じ……いや、本物の『家康』以上に冷酷な、徳川という怪物の血が流れていたのか)
五郎の胸を、息子が自分を越えて「嘘」を完遂しようとする頼もしさと、自分と同じ孤独な地獄へ足を踏み入れたことへの悲痛な思いが、同時に締め付けた。
五郎は、懐にある、もう香らなくなった香袋をなぞり、独りごちた。
「……お愛。……許せ。私は、お前に似たあの子よりも、私たちの作ったこの『嘘の世』を選んだ。……見てくれ、お前の息子は今、本物の『怪物』になったぞ」
大坂城の天守が、一際大きく燃え上がった。
それは、五郎が一生をかけて演じ続けた「徳川家康」という芝居が、いよいよ最終幕へと向かう、あまりに残酷で美しい終焉の炎であった。




