【第二十一話:埋められた祈り —— 裸の城と不帰の春】
慶長二十年(一六一五年)、早春。
和議が成立したはずの大坂城は、春の訪れを拒むかのように、冷たい泥の海に沈んでいた。
駿府へ戻ったはずの五郎は、胸を騒がせる報告を受け、再び大坂の地を踏んでいた。
そこには、かつて太閤・秀吉が「三年の月日をかけても落とせぬ」と豪語した、あの深い、深い堀はどこにもなかった。
ただ、平らにならされた、無機質な泥の大地が広がっている。
作業員たちが抗議する豊臣の使者を嘲笑い、黙々と土を投げ入れる音だけが、五郎の鼓膜を不気味に叩く。
(……これでは、ただの広い屋敷ではないか)
五郎は、泥にまみれた大地を見つめ、眩暈を覚えた。
堀が消えるということは、戦を拒む「盾」を奪われるということだ。五郎が望んだのは、豊臣を無力化して「生かす」ことだった。だが、目の前で行われているのは、豊臣を袋小路へ追い詰め、確実に「殺す」ための準備に他ならなかった。
その夜、宿所に現れた本多正信と天海は、五郎の抗議を冷徹な論理で撥ね退けた。
「殿。算盤を弾けば、これしか道はございませぬ」
正信は指先で黒革の紐を弄びながら、平然と言い放った。
「外堀だけを埋めても、内堀があれば籠城は続けられる。なれば、豊臣は再び浪人を集め、徳川に牙を剥くでしょう。泰平を万全のものとするには、彼らが二度と戦を考えられぬほど、丸裸にする必要があったのでございます」
「だが、これでは和議の約束を違えることになる。……治部殿、貴殿もこれでよいと思うのか」
五郎が天海を鋭く睨むと、老僧は静かに数珠を繰り、その深い眼差しを五郎に向けた。
「内府殿。平和とは、時に誠実さよりも残酷さを必要とするものでございます。……あの大坂城に集まった十万の浪人たちは、もはや生きる場所を戦の中にしか見出せぬ者たち。彼らを城から引きずり出し、その夢を断つには、この泥の海が必要だったのです」
五郎は、お愛の香袋を強く握りしめた。
自分が作り上げ、数正や三成たちが磨き上げた「徳川」という仕組み。それは今や、五郎個人の慈悲などという小さな感情を飲み込み、自律的に動き出す巨大な怪物と化していた。
三月。江戸の将軍・秀忠から、大坂へ対して最後通牒とも言える過酷な要求が突きつけられた。
『城内の浪人をすべて解雇せよ。さもなくば、国替えに応じ、大坂城を明け渡せ』
五郎は、駿府に届いたその書状を読み、震えた。
「……長丸。お前は、彼らに『死ね』と言っているのか」
すぐさま秀忠を呼びつけたが、現れた息子は、もはやかつての少年ではなかった。
「父上。これは慈悲にございます」
秀忠の声は、驚くほど低く、揺るぎなかった。
「浪人を抱えたままの豊臣は、徳川の世にとって消えぬ火種。彼らを城から出すことは、徳川のためだけではなく、日の本すべての民のため。……父上の築かれたこの世を汚す者は、私がすべて取り除きます」
五郎は絶句した。息子は、自分が教えた「徳川家康」という仮面を、自分以上に完璧に、そして冷徹に被りこなしていた。五郎が平和のために「嘘」を吐き続けてきた報いが、今、最も愛する息子の非情な決断となって自分に返ってきている。
五郎は、息子の中に流れる「徳川」という名の、逃れられぬ業を感じずにはいられなかった。
剥き出しの牙を抜かれた大坂城内。
五郎の孫娘・千姫は、日に日に重苦しくなる空気の中で、ひとり震えていた。
和議によって、ようやく夫・秀頼との穏やかな日々が戻ると信じていた彼女にとって、城を包囲するように積み上げられた泥の壁は、絶望の象徴であった。
城内の浪人たちは、徳川への憎悪を募らせ、その矛先は徳川から嫁いだ千姫にも向けられ始めていた。
「おじい様……父様……私は、どこへ帰ればよいのですか」
彼女の孤独な祈りは、春の嵐にかき消されていく。
豊臣側は徳川の要求を断固拒否し、再び浪人を呼び集め、埋められた堀を必死に掘り返し始めた。だが、一度平らにならされた土地は、もはやかつての要塞としての威厳を失っていた。
五月。新緑が目に染みる季節。
五郎は、再び重い鎧を纏っていた。人生で最後となるであろう、大坂への出陣である。
十五万の徳川軍が、再び大坂を包囲する。だが此度の戦は、冬のような膠着はあり得なかった。城にはもはや、軍勢を阻む堀も、敵を退ける石垣も存在しない。
五郎は、馬上で空を見上げた。
初夏の太陽は、これから流されるであろう数多の血を予感させるように、残酷なまでに眩しく輝いている。
(……お愛。……私は、また嘘を吐く。秀頼を助けると千に約束しながら、私は今、彼らを焼き尽くすために火を持てと命じている)
五郎の瞳から、熱いものがこぼれ落ちた。
平和という名の供養を完遂するために、五郎は自分自身の魂を、そして愛した者たちとの約束を、大坂の泥の中に埋めていくしかなかった。
「徳川家康」という壮大な芝居、その最終幕の幕が、今、静かに、しかし決定的に上がろうとしていた。




