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『弟』〜家康は三方ヶ原で亡くなっていた。石川数正が仕掛けた徳川最大の虚構〜  作者: 滝丸
第三部:『影の昇華編』

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【第十八話:洗濯場の死角 —— 綻びた完璧な嘘】

お読みいただきありがとうございます。


本編最後のコメディ回です。お楽しみください。

慶長十六年(一六一一)、江戸城。

「徳川家康」という、世界で最も重い鎧をまとって数十年。

大御所となった五郎は、深夜の自室でようやくその仮面を緩め、無心に薬を煎じていた。

薬研やげんが立てる小気味よい音が、かつての静かな山寺の記憶を呼び起こす。この孤独な作業だけが、彼を「五郎」へと引き戻す儀式であった。


そこへ、襖を突き破らんばかりの勢いで二代将軍・秀忠が転がり込んできた。

「父上! お助けください! 江に見つかれば、今度こそ私は物理的に……この世から消されますッ!」

五郎は眉間を揉み、深く、重い溜息をついた。

「……秀忠。今度はどこの誰だ。これ以上、徳川の家系図に『不自然な枝』を増やすなと言ったはずだ」

秀忠は、天下の主とは思えぬほど情けない顔で、ガタガタと震えている。

「あ、大姥局おおばのつぼねのところに奉公している、お静という娘で……。その、不覚にも、見つめられたら抗えず……子が……!」


五郎は手慣れた様子で、傍らで平然と帳面をつけていた阿茶局に視線を送った。

「阿茶、いつものように書け。『私の十一男。母はお静。一昨年の冬、折からの体調不良により、人目を避けていた私を献身的に支えてくれた側室である』……これでいいな?」


「……なりませぬな」

冷や水を浴びせるような声が、部屋の隅から響いた。

本多正信である。

正信は指先で黒革の紐を弄びながら、意地の悪い笑みを浮かべて畳を這い寄ってきた。

「殿。今回ばかりは、その『絶倫大御所』の看板も通用しませぬ。……不在ふざいあかしが、成立しませぬゆえ」


「不在の証?」

五郎が怪訝な顔をすると、正信は指を一本立てた。

「左様。お静殿がいるのは、奥向きでも最も奥、洗濯場に近い下働きたちの詰所。殿、貴方はこの三年間、その付近に一歩も足を踏み入れておらぬ。あそこへ行くには、警護の目を盗んで屋根を伝うか、壁を抜ける忍術でも使わぬ限り、物理的に接触は不可能にございます。三成殿の算盤を借りるまでもなく、計算が合いませぬ」


五郎は絶句した。洗濯場。確かに、隠居を装いながらストイックに薬を煎じている聖人君子のような大御所が、わざわざ立ち寄る理由が一行も思いつかない。

完璧な役作りが、かえって仇となった。

「ど、どうすれば……! 父上の子にできぬとなれば、私は江に……殺される、本当に物理的にバラバラにされるッ!」

秀忠の震えは止まらない。


背後では、阿茶局と、いつの間にか現れた大姥局が、無言で視線を交わした。その瞳には、情けない男たちを置き去りにした「女たちの覚悟」が宿っていた。

「……殿。ここは、私たちに任せなさい」

阿茶が事務的な口調で言った。もはや家康を主君ではなく、処理の面倒な大型ゴミを見るような目だ。

「この不始末は、秀忠様の『独断』として隠密に処理します。幸い、お静殿の懐胎はまだ江殿には漏れておりませぬ。大姥、手配を」

「心得ております。……お静は今夜のうちに江戸城を出し、武田の見性院けんしょういん様のお屋敷へ送り届けます。あそこなら、江様の『殺気』も届かぬ聖域……」


二人の熟練の「隠蔽工作員」は、音もなく部屋を出ていった。

彼女たちは知っている。男たちの「天下」よりも、女たちの「嫉妬」の方が、時には歴史を容易く覆すことを。


部屋に残されたのは、情けなさに肩を落とする五郎と、畳に額を擦り付けて震える秀忠。

そして、部屋の隅に影のように佇んでいた僧、天海(三成)が静かに口を開いた。

「……内府殿。算盤を投げ出されましたな」

「……天海殿、笑うな」

五郎は、薬研の中に残った薬草のカスを、寂しそうに見つめた。


「俺の『徳川家康』という舞台も、洗濯場までは手が回らなかった。役者というのは、設定の矛盾に一番弱いものだな……」

「……ま、若君の『本能』が、殿の『演技』を上回ったということで。ははは、傑作にございますな」

正信の嘲笑が、深夜の江戸城に響く。



こうして、秀忠の隠し子——後の名君・保科正之は、公式には「家康の子」という隠れ蓑を得られぬまま、密かに信濃へと送られることになった。


五郎は、懐のお愛の香袋にそっと触れた。

(お愛……見てくれ。お前の息子は、私の知らないところで、私の演技を突き破るほど逞しくなったぞ。……方向性は、いささか間違っている気がするがな)

完璧な嘘が綻んだ瞬間の、なんとも言えない切なさと安堵。

江戸城の夜は、天下人親子の情けない溜息と共に、静かに更けていくのであった。

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