【第十七話:蜻蛉切の休息 —— 盾が遺した仮面】
慶長十五年(一六一〇年)、秋。
かつて五郎と共に幾多の戦場を駆け抜け、ただの一度も傷を負わなかった「古今独歩の勇士」本多忠勝は、隠居地の桑名で静かな時を過ごしていた。
だが、その屈強な肉体にも、抗えぬ老いという波が押し寄せていた。戦場を冷徹に射抜いたその瞳は白く濁り、自慢の愛槍・蜻蛉切の重みさえ、近頃はひどく遠く感じられるようになっていた。
ある日、駿府から密かに見舞いに訪れた五郎を、忠勝は震える手で迎えた。
「……殿。お恥ずかしいところを、お見せいたしましたな」
忠勝は苦笑いしながら、布を巻いた左手を見せた。小刀で自らの持ち物に名を彫っていた際、手元を狂わせて指を傷つけてしまったのだという。
「本多平八郎、一生の不覚。……己の手を傷つけるようでは、武人としての寿命もここまで。どうやら、私の終わりの刻が来たようでございます」
五郎は、その言葉を遮るように首を振った。だが、忠勝の瞳に宿る、全てを悟ったような静かな光を見て、言葉を飲み込んだ。
忠勝は、窓の外の西の空を見つめた。
「……大坂の秀頼公。あの方は、実に見事な若武者に育たれました。……いずれ来るであろう最後の一戦、この平八郎が殿の御供をできぬこと。最強の武人として、これほど無念なことはございませぬ」
忠勝の声は微かに震えていた。だが、その瞳が五郎を捉えた瞬間、力強い輝きを取り戻した。
「……されど、殿。この不器用な五郎殿に仕えたこと、私の人生において、何よりの幸せでございました」
不意に口にされた「五郎殿」という名に、五郎の肩が小さく揺れた。
「……平八郎。私は、まだ……」
言いかけた五郎に、忠勝は深く、重厚な笑みを向けた。
「殿、もうよろしゅうございます。貴殿は十分すぎるほど、本物の家康公であられた。……いや、誰よりも『家康』という男の魂を、その身に宿しておられた」
五郎は、それでもなお「自分は身代わりに過ぎぬ」という呪縛から逃れられず、仮面を脱ぐことを躊躇した。そのあまりに真面目な横顔を見て、忠勝は懐かしそうに目を細めた。
「ふっ……その生真面目さこそが、貴殿らしさだ。……やはり、あの時、治部(三成)殿を生かしておいて正解でございましたな。……五郎殿、あとは天海に。……あやつに、貴殿の孤独を預けなされ」
数日後。本多忠勝は、眠るように急逝した。享年六十三。
あまりに突然の報せであった。だが五郎は、忠勝が死の間際まで、己の弱った姿を見せて五郎に心配をかけまいと、最後の命の火を振り絞って自分を迎えていたのだと悟った。
最強の盾が、ついに地に落ちた。
三方ヶ原で自分を馬の背に乗せ、三十八年もの間、物理的にも、そして心の奥底でも自分を護り抜いてくれた男が、この世から消えたのである。
駿府城、深夜。
家臣たちの前では平然と「大御所」としての振る舞いを崩さなかった五郎だったが、独りきりになった奥御殿で、ついに崩れ落ちた。
「……平八郎……お前まで、私を独りにするのか……!」
声を上げ、子供のように号泣する五郎。
その背中を、阿茶局が涙を堪えながら、静かに、しかし力強く抱きしめた。
そして部屋の隅、影の中から現れた天海が、何も言わずに五郎の前に跪いた。
「……治部殿……平八郎が、逝ったぞ……」
五郎の掠れた声に、天海は静かに目を閉じ、合掌した。
「……左様でございますな。……ですが、あの男が遺した『盾』は、今も殿の周囲を護っております」
五郎は、泣きながら懐の白檀の香袋を握りしめた。
正体を知る者が一人消えるたびに、五郎の「嘘」は確固たる歴史へと変わっていく。
だがその代償は、あまりに重く、あまりに冷たい孤独であった。
江戸の夜風が、最強の武人の死を悼むように、駿府の城壁を激しく叩いていた。




