【第十五話:盾の休息 —— 結城秀康、落日の果てに】
慶長十二年(一六〇七年)、六月。駿府。
城を包む初夏の陽光はあまりに眩しく、残酷なほどに穏やかであった。
その静寂を切り裂くように、越前からの早馬が城門を叩いた。
「越前宰相、秀康卿……逝去」
その報せが奥御殿に届いた瞬間、阿茶局は手にしていた茶碗を畳に落とした。
「そんな……。つい先日、体調が優れぬと京都を辞し、越前に戻られたばかりではございませぬか。まだ三十三……早すぎます、あまりに……」
居並ぶ宿老たちも一様に言葉を失い、顔を覆った。徳川の「最強の盾」と謳われた若き傑物の急逝を、誰一人として信じられずにいた。
五郎は、上座で微動だにせずその報せを聞いていた。
「……そうか。宰相も、疲れたのであろうな」
その声は、驚くほど低く、乾いていた。表情一つ変えぬ主君の姿に、近習たちは「なんと冷徹な」と密かに背筋を凍らせた。だが、傍らにいた阿茶だけは、五郎の指先が膝の上で白くなるほど震えているのを見逃さなかった。
数日後、越前から一通の書状が届けられた。秀康が死の直前、最期の力を振り絞って「父・家康」へと認めた別れの挨拶であった。五郎は独り、部屋の灯りを落とし、その文を開いた。
『父上。……私は、幸せにございました。
不器用で、いつも遠くから見守るしかなかった貴方様の大きな愛に包まれて、今日まで生きてこられたこと。……そして、私が城外に置かれ続けたのも、すべては徳川の嵐から私自身を護るためであったと、母より聞いております。
かつて二人で参った、三河のあの御方の墓所。……もう一度、今度は「父子」として、連れ立って参りたかった。
私は一足先に、お愛様と、そして「本物の父上」の元へ参ります。
貴方様が創りし泰平、この秀康が、あの世でも盾となって護り続けましょう。
さようなら、私の、優しき父上……』
五郎は、読み終えた書状を静かに畳んだ。
「……馬鹿者が。誰が、盾になれなどと言った」
その呟きは、誰にも届くことなく闇に吸い込まれた。
夜。駿府城の静寂の中で、阿茶に白檀の香を焚かせ、五郎は独り座していた。鼻をくすぐる微かな香りが、三十五年もの嘘を、一瞬だけ「五郎」という名に戻していく。
「秀康……。兄上の忘れ形見よ。
忠次や数正に止められて、会うことも、一度だって抱きしめてやることもかなわなんだ。……だが、お前は私のことを、最後まで『父上』と慕ってくれたな」
五郎の視界が、急激に歪んだ。
「優秀な武人であったゆえ、関ヶ原ではあんな地獄の前線に立たせてしまった。……だが、本当は……本当は秀忠と同じく、ただ静かに、健やかに生きてほしかったのだ。兄上の血を引くお前を、私は……」
五郎は畳に額を擦り付け、声を殺して慟哭した。
三十五年の間、完璧な「徳川家康」という仮面を張り付けてきた男が、今、ただの「五郎」として、愛する甥の死に崩れ落ちた。
「すまぬ、秀康。すまぬ……。一度もお前を抱きしめることもできぬまま、私は……私は誰よりも、お前を愛していたのだ……」
窓の外には、かつて二人で見上げたのと同じ、茜色の名残を宿した月が昇っていた。
すべての嘘と愛を飲み込んで、歴史の闇はただ深く、静まり返っていた。




