【番外編:落日の誓い ——お万と於義丸、語られぬ血脈】
天正十二年(一五八四年)、十月。
徳川と羽柴の和議が成り、その証として家康の次男・於義丸が、羽柴秀吉のもとへ養子――実質的な人質として送られることとなった。
浜松城での別れの挨拶を終え、一行が領地を離れる道すがらのことである。
西の空は燃えるような茜色に染まり、家康と別れたばかりの浜松城の屋根が、遠く陽炎のように揺れていた。
十一歳になる於義丸は、ふと馬を下り、母・お万の隣に立った。その瞳には、出立の数日前、密かに連れて行かれたあの山寺での父の姿が焼き付いている。
「……母上。私は、分かりませぬ。父上の瞳は、あんなにも慈しむように私を見ておられたのに……。なぜ私は一度も城に入れてもらえず、他人のように遠ざけられねばならなかったのですか」
於義丸の震える声に、お万は静かに目を閉じ、かつて自分がいた「場所」の匂いを思い出した。
「於義丸。明日には酒井忠次殿や石川数正殿がいらっしゃいますから、今のうちに。……少し、昔話をしましょうか」
二人は共を遠ざけ、夕陽の見える丘に立った。
「私がお愛様……西郷局様と共に過ごした、あの別邸の話を」
お万の声は、夕凪のように静かだった。
「私もお愛様も、戦で親を亡くした身の上でした。行き場を失っていた私を拾ってくださったのは酒井殿。そして、お愛様を連れてこられたのは石川殿。私たちは、あの方々が守ろうとした『二人の主』に仕えるために、あの邸に集められたのです」
「二人の、主……?」
「ええ、瓜二つの、若き兄弟。徳川の正統なる主である家康公と、その影として生きる五郎様。……私たちは、お二人の素顔を知る数少ない者でした。そして三方ヶ原のあの日。混乱の中で貴方の命を宿していた私は、引き離されるように寺へと匿われたのです」
於義丸は息を呑み、母の横顔を見つめた。
「……三方ヶ原で、本物の家康公は、おそらく亡くなったのでしょう。今、貴方が父と呼ぶお方は……あの頃、私たちに誰よりも優しく接してくださった、弟君の五郎様にございます」
於義丸の身体が、微かに震えた。あの山寺での記憶が、急激に鮮明な色彩を帯びて蘇ったからだ。
「……あの日。父上が私を連れて行ってくださった、あの名もなき古い墓」
於義丸の声が、激しく揺れた。
「あそこで父上が涙を流し、『お前にゆかりのある方が眠っている』と仰ったのは……。あそこに眠っておられたのが、私の、真の父上だったのですね」
お万は無言で頷いた。於義丸は天を仰ぎ、溢れそうになる涙を堪えた。
「……あの方は、私たちを殺して口を封じることもできたはず。でも、そうせずあえて城外で豊かな暮らしを与えてくださったのは、貴方を守り、武士としての道を残すため。それは、五郎様という一人の男が、兄公への贖罪として捧げた、精一杯の愛なのです」
於義丸は、燃えるような夕日を見据えた。
「……分かりました、母上。私の父上は、この世にただ一人。……誰よりも強く、そして脆い、あの徳川家康公にございます」
於義丸は、拳を強く握りしめた。あの方を「父」として支えることこそが、自分たちにできる唯一の報恩なのだと、少年の瞳には凛とした決意が宿った。
お万は声を詰まらせ、沈みゆく陽から目をそらした。
「……今日、城へ上がったとき、お愛様の姿を遠目に見かけました。その時、確信したのです。あの方の隣にいるのは、やはり五郎様なのだと」
お万の目尻に、夕陽とは違う微かな光が滲んだ。
「……かつて私を慈しんでくださった殿がもうおられぬこと。いざ現実として突きつけられれば、やはり……寂しいものですね」
於義丸は一瞬だけ寂しげに目を伏せたが、すぐに顔を上げ、馬に戻った。彼はもう一度だけ、遠ざかる浜松城を振り返った。そこには、自分を抱きしめることさえ許されず、それでも白檀の香りと共に「徳川」を守り続ける一人の男の孤独がある。
「行きましょう、母上。……私は、あの方の、誇れる息子になってみせます」
二人が歩き出した時、太陽は山の端に沈み、深い藍色の闇がすべてを包み込んだ。真実は闇に消え、歴史という名の巨大な嘘だけが、月明かりに照らされていた。




