表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『弟』〜家康は三方ヶ原で亡くなっていた。石川数正が仕掛けた徳川最大の虚構〜  作者: 滝丸
第三部:『影の昇華編』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

69/86

【番外編:落日の誓い ——お万と於義丸、語られぬ血脈】

天正十二年(一五八四年)、十月。

徳川と羽柴の和議が成り、その証として家康の次男・於義丸おぎまるが、羽柴秀吉のもとへ養子――実質的な人質として送られることとなった。


浜松城での別れの挨拶を終え、一行が領地を離れる道すがらのことである。

西の空は燃えるような茜色に染まり、家康と別れたばかりの浜松城の屋根が、遠く陽炎かげろうのように揺れていた。

十一歳になる於義丸は、ふと馬を下り、母・お万の隣に立った。その瞳には、出立の数日前、密かに連れて行かれたあの山寺での父の姿が焼き付いている。


「……母上。私は、分かりませぬ。父上の瞳は、あんなにも慈しむように私を見ておられたのに……。なぜ私は一度も城に入れてもらえず、他人のように遠ざけられねばならなかったのですか」

於義丸の震える声に、お万は静かに目を閉じ、かつて自分がいた「場所」の匂いを思い出した。

「於義丸。明日には酒井忠次殿や石川数正殿がいらっしゃいますから、今のうちに。……少し、昔話をしましょうか」



二人は共を遠ざけ、夕陽の見える丘に立った。

「私がお愛様……西郷局様と共に過ごした、あの別邸の話を」

お万の声は、夕凪のように静かだった。

「私もお愛様も、戦で親を亡くした身の上でした。行き場を失っていた私を拾ってくださったのは酒井殿。そして、お愛様を連れてこられたのは石川殿。私たちは、あの方々が守ろうとした『二人の主』に仕えるために、あのやしきに集められたのです」


「二人の、主……?」

「ええ、瓜二つの、若き兄弟。徳川の正統なる主である家康公と、その影として生きる五郎様。……私たちは、お二人の素顔を知る数少ない者でした。そして三方ヶ原のあの日。混乱の中で貴方の命を宿していた私は、引き離されるように寺へと匿われたのです」


於義丸は息を呑み、母の横顔を見つめた。

「……三方ヶ原で、本物の家康公は、おそらく亡くなったのでしょう。今、貴方が父と呼ぶお方は……あの頃、私たちに誰よりも優しく接してくださった、弟君の五郎様にございます」


於義丸の身体が、微かに震えた。あの山寺での記憶が、急激に鮮明な色彩を帯びて蘇ったからだ。

「……あの日。父上が私を連れて行ってくださった、あの名もなき古い墓」

於義丸の声が、激しく揺れた。

「あそこで父上が涙を流し、『お前にゆかりのある方が眠っている』と仰ったのは……。あそこに眠っておられたのが、私の、真の父上だったのですね」

お万は無言で頷いた。於義丸は天を仰ぎ、溢れそうになる涙を堪えた。


「……あの方は、私たちを殺して口を封じることもできたはず。でも、そうせずあえて城外で豊かな暮らしを与えてくださったのは、貴方を守り、武士としての道を残すため。それは、五郎様という一人の男が、兄公への贖罪として捧げた、精一杯の愛なのです」


於義丸は、燃えるような夕日を見据えた。

「……分かりました、母上。私の父上は、この世にただ一人。……誰よりも強く、そして脆い、あの徳川家康公にございます」

於義丸は、拳を強く握りしめた。あの方を「父」として支えることこそが、自分たちにできる唯一の報恩なのだと、少年の瞳には凛とした決意が宿った。


お万は声を詰まらせ、沈みゆく陽から目をそらした。

「……今日、城へ上がったとき、お愛様の姿を遠目に見かけました。その時、確信したのです。あの方の隣にいるのは、やはり五郎様なのだと」

お万の目尻に、夕陽とは違う微かな光が滲んだ。

「……かつて私を慈しんでくださった殿がもうおられぬこと。いざ現実として突きつけられれば、やはり……寂しいものですね」


於義丸は一瞬だけ寂しげに目を伏せたが、すぐに顔を上げ、馬に戻った。彼はもう一度だけ、遠ざかる浜松城を振り返った。そこには、自分を抱きしめることさえ許されず、それでも白檀の香りと共に「徳川」を守り続ける一人の男の孤独がある。


「行きましょう、母上。……私は、あの方の、誇れる息子になってみせます」

二人が歩き出した時、太陽は山の端に沈み、深い藍色の闇がすべてを包み込んだ。真実は闇に消え、歴史という名の巨大な嘘だけが、月明かりに照らされていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ