【第十二話:継承の天秤 —— 盾と器の契り】
慶長十年(一六〇五)、四月。江戸城。
二代将軍の座を誰に継がせるか。徳川の、そして日の本の行方を決める評定は、深夜に及んでも決着を見ずにいた。
「……此度の継承、血筋の正統を重んじるならば、結城秀康様こそが適任。それが、亡き先代への、そして徳川の誇りへの義理というもの」
本多平八郎忠勝が、地を這うような声で断じた。
忠勝は、五郎が「兄・家康」の身代わりであることを知る数少ない共犯者である。だからこそ、主君が心の奥底で「徳川の名を、兄の血を引く秀康に返したい」と願っていることを、誰よりも察していた。
だが、その言葉を遮るように、本多正信が冷ややかに黒革の紐を弄んだ。
「平八郎殿、情緒は算盤を狂わせまする。秀康様は既に他家へ養子に出された御身。
何より、これからの泰平の世に必要なのは、武略の天才ではありませぬ。政治という名の退屈な仕事を、淡々とこなす仕組みでございます」
正信は五郎を一度も見ず、虚空を見つめた。
「どれほど愚鈍な者が座ろうとも、国が滞りなく回るよう制度化する。それが徳川の進むべき道。なれば、人当たりの良い秀忠様を据え、実務を我ら重臣が固めるのが、最も盤石なる理にございます」
五郎は、二人の論争を沈黙のまま聞いていた。
自分の心は決まっている。兄の遺児である秀康を将軍に据えること。それが、二十八年間「家康」という仮面を被り続けてきた自分にできる、唯一の罪滅ぼしであるはずだった。
評定を散会させた後、五郎は独り、江戸城の奥深くにある密室で、結城秀康と対峙していた。
兄に生き写しのその貌を見るたびに、五郎の胸には、古傷が開くような痛みが走る。
「……秀康。私は、お前を将軍に据えたい。お前こそが、正統なる徳川の……」
五郎が言いかけた言葉を、秀康は静かな、しかし峻烈な拒絶で遮った。
「父上。……滅多なことを仰いますな」
秀康は、真っ直ぐに五郎を見つめた。その瞳には、目の前の男が「実の父」ではないことをとうに察しながらも、あえてそれを口にせず、ただ「一族を護ってきた父」への深い敬意が宿っていた。
「私は、鏡を見て知っております。我が身に流れる血は、あまりに荒ぶり、戦の匂いがしすぎる。武略に長けた私のような者が頂点に立てば、世は再び血を求め、争いの火種が消えますまい。これからの世に求められるのは、私の持つ牙ではなく、秀忠が持つ、あの母上(お愛)譲りの『優しさ』にございます」
秀康は床に拳をつき、深く頭を下げた。
「私は将軍などという、仕組みを護るための椅子は真っ平御免にございます。私は、徳川の『盾』となりましょう。弟を、そしてこの泰平の世を影から護る鬼神となり、敵を退ける。それが、私がこの世に生を受けた真の役目かと存じます」
五郎は、何も言えなかった。秀康は、五郎の正体を暴くためではなく、五郎が背負ってきた「嘘」を共に担おうとしているのだ。
彼は決して「五郎殿」とは呼ばない。死ぬまで、この男を「父上」として敬い、その嘘を真実として守り抜く。それが、兄の息子としての、最後の優しさであった。
翌日、五郎は全将兵を前に、二代将軍に秀忠を指名することを宣言した。
諸将の間に走る驚き。正信の満足げな笑み。
そして、当の秀忠の顔からは、血の気が一気に引いていた。彼は安堵などしていなかった。自分のような不甲斐ない男が、父という名の怪物の跡を継がねばならない。その逃れられぬ重圧に、秀忠は青ざめたまま、ただガタガタと震えていた。
五郎は、その秀忠の姿を、どこか残酷な思いで見つめていた。
兄の血筋を護るために、兄の血筋である秀康に「盾」という汚れ役を負わせ、偽物の血筋である秀忠に「将軍」という名の重荷を背負わせる。
五郎は、懐の白檀の香袋を強く握りしめた。
「……秀忠。案ずるな。……足りぬところは、この隠居がすべて埋めてやる」
怯える息子にかけたその言葉は、父親としての慈悲か、あるいは演出家としての宣告か。
江戸の空に、明け方の冷たい風が吹き抜けていった。
秀康が、徳川の盾として静かに後ろに控える。その光景を見た五郎は、兄への義理を「歴史の嘘」として完遂させる覚悟を、改めて固めたのである。




