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『弟』〜家康は三方ヶ原で亡くなっていた。石川数正が仕掛けた徳川最大の虚構〜  作者: 滝丸
第三部:『影の昇華編』

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【第十話:再会の山寺 —— 天下の名、知己の契り】

慶長五年(一六〇〇年)十月下旬。三河国。

秋も深まり、山々の紅葉が夕映えに燃え立つ頃、古びた山門の前に二騎の馬が止まった。

信濃松本の地で石川数正への報告を終えた五郎と本多平八郎忠勝が、その足で辿り着いたのは、五郎にとっての原点であり、兄・家康が静かに眠るあの山寺であった。



五郎は馬を降りると、迷うことなく寺の裏手へと向かった。

そこには、三方ヶ原の泥濘ぬかるみから運び出された「本物の徳川家康」が、名もなき墓石の下で眠っている。


十七の歳、兄のかたちを写し取るための『写し身』としてこの山を下りたあの日。

浜松の別邸で初めて得た家族の温もり、そしてお愛という光。それは五郎の生涯において、純粋に己の生を謳歌できた唯一の、幸福な季節であった。


だが、三方ヶ原で兄が果て、自らが『徳川家康』という名の虚構を身にまとったあの日から、五郎の歩みは常にこの墓標の引力の中にあった。

懐に抱き続ける『元康』の紙は、兄そのものの形見であると同時に、あの日永遠に奪い去られた『五郎』という自分自身の抜け殻でもある。石の下で眠る実体の兄と、紙の中に封じられた偽物の己。五郎は、その二つの重みに二十八年の歳月を縛り付けられてきたのである。



五郎は静かに膝をつき、兄の魂に掌を合わせた。

傍らで見守っていた忠勝が、寺の佇まいを懐かしむように見上げ、独白のように呟いた。

「……ここは、我が本多家ゆかりの寺。だが、叔父上(本多忠真)は、幼き頃の私をこの寺には決して近づけようとはしなかった。……今にして思えば、殿がここにおられたからだったのだな」


忠勝は、叔父・忠真が命を懸けて守り抜こうとした「隠し子・五郎」という秘密の重さを、数十年経った今、ようやく肌で感じていた。自分たちがこの主君を愛するのは、血筋ゆえではない。この山寺の静寂の中で育まれた、あまりに純粋な魂に触れたからなのだと、武人の瞳が静かに語っていた。



墓参を終えた五郎が本堂の奥へと進むと、薄暗い廊下の先、香煙の立ち込める小部屋に一つの人影があった。

「……目覚めてから、ずいぶんと待たせたな。……だいぶ相貌そうぼうが変わったな、治部殿。一目ではわからなかったぞ」


旅のちりにまみれたままの五郎が声をかける。影の中からゆっくりと立ち上がったのは、かつての石田三成であった。鋭かった眼光は幾分か穏やかになり、剃髪されたその頭は、一月の時が流れたことを無言で物語っている。


三成は微かに口角を上げ、五郎に向き直った。

「いいえ。……この一月、貴殿が歩んできた泥濘の残り香を、この寺の土から感じておりましたよ。……数正殿には、会えましたか」

「ああ。報告してきた。……これからは、我らの番だ」

五郎の瞳には、関ヶ原を越え、数正の墓前で決意を新たにした者にしか宿らぬ、揺るぎない光が宿っていた。


「治部殿、いや、何とお呼びしようか。……もはや、この世に石田三成の名を呼ぶ者は居らぬ」

三成は静かに頷き、傍らの住職と目を合わせた。

「名は、住職と相談して決めた。……天を覆う海の如き慈悲を持つようにと、『天海てんかい』とする」

「……天海か。良い名だ」

五郎は満足げに頷き、その手を天海の肩に置いた。

「天海殿。貴殿の正論、これからも私にぶつけてくれ。……共に、千年の泰平を築こうではないか」

「……承知いたしました、五郎殿」

天海は、かつての主従という枠を超え、等しき志を持つ知己として答えた。

「しばらくはこの寺で修行をいたす。年月が過ぎ、時が満ち……『石田三成』という呪いが世から消えた頃、貴方様のそばへ参ろう。江戸という名の、巨大な器を造るために」



その夜。

寺の片隅で、五郎、忠勝、天海の三人は、ひっそりと酒を酌み交わした。天下を揺るがした男たちが、ただの古寺の住人と化し、取り留めもない話に花を咲かせる。


酒が回り、焚き火のぜる音が響く中、忠勝がさかずきを置き、苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。

「……正信。俺はあやつが嫌いだ。……同じ本多一門だとは、死んでも思いたくない」


出し抜けな「嫌い」宣言に、五郎と天海が顔を見合わせる。忠勝は鼻を鳴らし、さらに続けた。

「だが……殿を思う気持ちだけは、あやつも同じだ。あやつはあやつなりの、ひねくれたやり方で、殿の孤独を埋めようとしておる。……だからこそ、やはりしゃくに障る。大嫌いだ」

忠勝の武骨で、しかし嘘のない言葉に、五郎と天海は同時に吹き出した。正信という「蛇」への毒づきさえも、今は心地よい共犯の印に聞こえた。



翌朝。

門出を前に、忠勝は懐から一帖の和綴じの本を取り出した。

松本の数正の墓前で報告を終え、再び預かってきた『影向之次第ようごうのしだい』である。


「天海殿、そなたにこれを託したい」

忠勝の差し出した書を、天海は訝しげに見つめた。

「これは、数正殿の……?」

「俺は武人だ。こういった難しい差配で殿をお支えするのは、どうにも性に合わぬ。……正信には正信の台本があるようだし、今の殿には、もはや演出など必要ないやもしれぬ。だが、数正殿や忠次殿の忠義が詰まったこの書、そのまま埋もれさせるのは忍びない。そなたなら、これを泰平の礎として、正しく使えるはずだ」

天海は穏やかな瞳で次第を受け取り、恭しく押し戴いた。



三河の山に霧が立ち込める中、門前に三つの影が並んだ。

三成は「天海」として山に残り、静かに経を読み始めた。その背中には、もはや野望の炎はなく、ただ泰平への数式が静かに刻まれている。


五郎と忠勝は、再び重い具足に身を固めた。

山を下れば、一人は日の本の頂点に立つ「徳川家康」として。一人は徳川を支える「最強の重臣」として。再び、世界で最も巨大な「嘘」を完遂するための戦場へと戻っていく。


馬に跨がり、五郎は一度だけ振り返った。

山寺の門が閉ざされ、天海の姿が霧の中に消えていく。

「……行くぞ、平八郎」

「はっ」

ひづめの音が響き、二騎は京へ向かって駆け出した。

五郎の懐には、あの白檀の香袋。

その香りは、泥にまみれた二十八年の歳月を越え、今、確かな「泰平の世」という真実に向かって、真っ直ぐに漂い始めていた。

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