【第九話: 霧の松本、真実への再会】
慶長五年、十月下旬。
関ヶ原の喧騒が冷めやらぬ城。石田三成の処刑という大きな節目を終えたなか、徳川の本陣には奇妙な静寂が流れていた。
「……殿は、戦の疲れにより、しばし人目を避け、奥にて養生される。阿茶がこれより一切の取次を仕切るゆえ、何人たりとも近づくことは許さぬ」
阿茶局の冷徹な一言に、福島正則ら猛将たちも引き下がるしかなかった。だが、その奥座敷に、五郎の姿はなかった。
その頃、五郎と本多忠勝は、数名の伊賀忍を密かに先行させ、中山道を東へと急いでいた。
五郎は、豪華な陣羽織を脱ぎ捨て、どこにでもいる老いた隠居のような身なりで馬を走らせる。その隣には、名槍・蜻蛉切を布で包み、ただの杖のように見せかけた忠勝が、苦虫を噛み潰したような顔で並んでいた。
「……殿。このような勝手、酒井の親父殿が生きておられたら、今頃腰を抜かして怒鳴り散らしておりましょうな」
「ふん。左衛門尉(忠次)なら、呆れ果てて一緒に付いてきたはずだ。……あいつは、そういう男だった」
五郎は、馬の背に揺られながら、秋の冷たい風を吸い込んだ。
大津から関ヶ原を通り過ぎ、さらに東へ。目指すは、信濃国・松本。
数正が、豊臣の刺客や世間の嘲笑に耐えながら、最後に辿り着いた孤独な終焉の地である。
数日の強行軍の末、二人は松本城下を見下ろす丘に辿り着いた。
早朝の松本は、薄い霧に包まれ、静まり返っている。
五郎は馬を降り、数正がかつて城主として歩いたであろう土を、一歩一歩踏みしめるように歩いた。
「……ここか。数正が、最後に見た景色は」
丘の中腹、名もなき石碑の前に、二人は立った。
そこには、かつて徳川のすべてを差配し、五郎という小僧を「家康」という怪物に仕立て上げた男が眠っていた。
忠勝は、懐からあの『影向之次第』を取り出し、それを墓前に供えた。
「……数正殿。……俺だ。本多平八郎だ。……お前が去った時、俺はお前を斬り殺してやると叫んだ。……今更、謝ったところで、お前は冷たい顔をして笑うだけだろうが……」
忠勝の声が、霧の中で震えた。
彼は、数正が残した緻密な指示書を読み込み、この十五年間、どれほどの重圧を数正が独りで背負っていたかを知った。秀吉の網を自分に引き寄せ、五郎の「綻び」を隠し通すために、あえて裏切り者として死んでいった男の、あまりに狂おしい忠義。
「……お前の勝ちだ、数正殿。……殿は、天下を平らげたぞ。……お前が命を懸けて守った『嘘』は、今、この国の『真実』になった」
忠勝は、墓石に向かって深く頭を下げ、その場に崩れ落ちるように嗚咽した。
五郎は、忠勝の背中に手を置き、静かに目を閉じた。
「数正、天下を、とったぞ。……私は、家康になれていたか」
五郎の呟きは、霧の中に吸い込まれていった。
「……見ていろ。お前が私に託したこの『家康』という仮面、私は死ぬまで脱がぬつもりだ。……お前が泥を被って守ってくれたこの徳川、私が必ず、お愛の望んだ泰平の世にしてみせる」
墓前に手向けられた白檀の香が、松本の冷たい風に吹かれて消えていく。
二人の男は、霧の中でいつまでも、かつての「戦友」と無言の会話を続けていた。
京に戻れば、再び「天下人・徳川家康」と「最強の勇将」に戻らねばならない。だが、この松本の静寂の中だけは、二人はただの、数正という男を愛した不器用な「五郎の共犯者」であった。
【 石川数正の独白――松本より】
もう、腹は減らぬ。
私は今、信濃の古刹……里山を背負い、清らかな川の音が届く丘の中腹に眠っている。
生前、あんなに私を急き立てていた喉の渇きも、胃の腑を掴むような空腹も、今はもう遠い。
ここはひどく寒いが、空気は驚くほど澄んでいる。眼下には松本盆地の柔らかな緑が広がり、女鳥羽の川音が、静寂を縫うように響いている。
隣には、妻が眠っている。
私も人並みに愛妻家のつもりであったが、彼女は生前、「あなたは私よりも、殿のことばかり見ておいでだ」と、よく拗ねていたものだ。
死してなお同じ穴に身を寄せながら、彼女はまだ、私の視線が遠い空を追うのを苦々しく思っているかもしれない。すまぬな、こればかりは墓場まで持っていくはずの業なのだ。
西にそびえる飛騨の高嶺を見上げても、その向こうは越中。私が焦がれる場所はない。
だが、視線を南へ転じ、あの塩尻の峠を越えれば、諏訪の海が見えるはずだ。そこから天竜の川沿いを下っていけば……かつて私が捨てた、そしてあの方と歩んだ三河や遠江へ続いている。
先日、その殿が、本多忠勝殿を伴って密かに私の元を訪ねてくれた。
あの「天下無双」と謳われた忠勝殿が、私の墓の前で、声を放って泣き伏していた。
忠勝殿は、酒井(忠次)殿から一通の書を引き継いだのだという。
『影向之次第』
私が徳川を去る際、酒井殿にだけ託した、あの「嘘」のすべてを記した書。
あそこに仕掛けた、わずかな「綻び」の意味。
治部(三成)という男がその謎を解き、あの方の正体と、我らが命懸けで守り抜こうとした「巨大な慈悲」を読み解いてくれたからこそ、関ヶ原は最小の血で終わり、この国は救われた。
「……数正、すまなんだ! 貴殿を……貴殿を、真の裏切り者と信じ込み、恨み続けておった、この俺を許してくれ!」
額を土に擦りつけ、声を放って泣き伏す忠勝殿。あのアリ通しの名槍・蜻蛉切も、主人のあまりの慟哭に、心なしか震えているように見えた。
殿がその肩を静かに抱き、「もうよいのだ、平八郎。数正は最初から、こうなることを分かっていたのだ」と、私に代わって宥めていた。
よかった……。
お愛様が亡くなってから、あの方の心はどれほど凍てついていたことか。半蔵からその報せを聞いた夜、私は独り、信濃の空を見て、あの白檀の香りを思い出していた。
殿。
これからは、もう無理に「家康」になろうとなさるな。
お愛様のいないこの世は寂しかろうが、貴殿がいつかこちらへ来る日を、あの方は白檀を焚いて待っておられるはずだ。
私は、それまでここで、妻の嫉妬を買いながら、貴殿を見守っている。
……それにしても、この物語を綴っている御仁は、どうにも私を贔屓しすぎているようだ。
もういい。私はここで、ようやく静かに眠れるのだから。
これ以上、私を引っ張り出したりせんでほしい。……腹は減らぬが、面倒な役目は、もう御免だ。
……だが。
もしも殿が、また独りで泣いているようなことがあれば。
その時は、致し方ない。
この信濃の寒空を突き破って、また貴殿の前に、嫌味の一つでも言いに現れるとしよう。




