【第七話:断罪の芝居 ——父親という名の怪物】
慶長五年(一六〇〇年)九月二十日。
関ヶ原の激闘が終わり、天下の帰趨が定まってから五日が過ぎた。
戦勝の歓喜に沸く徳川の本陣 ——美濃国大垣近郊の宿営地には、周囲の喧騒とは隔絶された、ひび割れたような緊張が漂っていた。
中山道を進んでいた徳川秀忠が、ようやく戦場へ辿り着いたのである。だが、天下分け目の決戦に三万八千もの主力を引き連れながら遅参したという事実は、武家において万死に値する失態であった。
秀忠は陣の外、泥にまみれたまま三日三晩、五郎との面会を拒絶され続けていた。
「……殿。秀忠様はもはや一歩も動けぬほどに憔悴し、畳に額を擦り付けておいでです。……そろそろ、お会いになっては」
側近の本多忠勝の静かな促しに、五郎は無言で立ち上がった。その瞳に宿っているのは、勝利の凱歌を聴く英雄の光ではない。それは、一人の父親としての葛藤と、共謀者としての暗い覚悟が混じり合った、複雑な炎であった。
「……入れ」
五郎の低く、地を這うような声が陣内に響く。
陣幕を潜り、震えながら入ってきた秀忠は、五郎の顔を見ることすらできなかった。道中の強行軍による砂と泥にまみれたまま、床に平伏する。
「父上……。この秀忠、真田の策に嵌まり……天下分け目の決戦に遅参つかまつり、徳川の武名を汚しました。……どのような処断も、覚悟しております……!」
秀忠の肩は、見るに堪えぬほどガタガタと震えていた。その姿は、かつて三方ヶ原で兄の甲冑を着せられたとき、己の無力に震えていた若き日の五郎、そのものであった。
五郎はゆっくりと秀忠に歩み寄った。そして、その首筋を掴まんばかりの勢いで身を乗り出す。
「――この、大馬鹿者がッ!!」
雷鳴のごとき一喝が下った。五郎の顔は怒りで真っ赤に染まり、額には青筋が浮き出ている。
「貴様は、何のために中山道へ送られたと思っている! 三万八千の精鋭を引き連れながら、真田ごとき小城に手こずり、主戦に間に合わぬとは何事だ! お前一人の失態で、徳川が滅んでいたかもしれぬのだぞ!」
五郎の罵声は陣幕を突き抜け、外で控える諸将を震え上がらせた。凄まじい「徳川家康」の激昂であった。
だが、その仮面の下で、五郎の魂は全く別の言葉を叫んでいた。
(……よくやった、長丸。よくぞ間に合わなかった。……あの地獄のような関ヶ原に、お前を立たせたくなかったのだ。お前が真田に足止めされていると聞いた時、私は心の底から安堵したのだぞ)
「……申し訳……ございませぬ……」
絞り出すような秀忠の声に、五郎はさらに声を荒らげる。
「申し訳ないで済むか! お前は徳川の二代目なのだぞ! お前の中に流れる、この家康の血が泣いているわ!」
五郎は、あえて「家康の血」という言葉を吐き捨てた。
これほど残酷な皮肉はない。秀忠の中に流れているのは、目の前の「偽物の父」である五郎と、最愛の母・お愛の血である。その一途で優しい血を、戦場の泥沼に沈めたくない。ただその一心で、五郎は今、世界で一番冷酷な父親を演じていた。
「……秀忠。お前は、母上に……お愛に顔向けができるのか。あの方が、命を懸けてお前を産み、慈しんだのは、このような不甲斐ない将にするためではない!」
お愛の名を口にした瞬間、五郎の瞳に一瞬だけ、隠しきれない悲痛が宿った。
秀忠は、父の怒りの奥に潜む「母への想い」に触れたと思い、さらに激しく泣き崩れた。
「父上……。私は……私は……!」
「……もうよい。下がれ! 貴様の顔など、二度と見とうない!」
五郎は突き放すように背を向けた。
家臣に引きずられるように秀忠が去っていった後、陣内には五郎と忠勝、そして阿茶局だけが残された。
五郎は、糸が切れたように肩を落とし、崩れるように床几へ腰を下ろした。
「家康」の仮面が剥がれ落ち、そこにはただ、息子を傷つけたことに心を痛め、同時にその命を救えたことに安堵する一人の男・五郎がいた。
「……平八郎。阿茶。……これで、よいのだな」
「はっ。……あれほど激しくお怒りになれば、諸将の不満も収まりましょう。秀忠様も、これで命だけは助かります」
阿茶が静かに歩み寄り、五郎の震える肩に手を置いた。
「……殿。貴方様は、お愛様との約束を、また一つ果たされました。……不器用な、父親にございますね」
五郎は懐から、もはや香りすら失いかけた白檀の香袋を取り出し、そっと目を閉じた。
「……数正が見ていたら、なんと言うかな。『お芝居が過ぎますぞ、殿』と……あの嫌味な声で笑うだろうか」
五郎は涙を堪えるように、自嘲気味に笑った。
天下を手中に収めた男の正体は、息子を地獄から遠ざけるために自ら不名誉な「遅参」を演出し、さらにそれを人前で激しく叱り飛ばすという、世界で最も孤独な父親の愛そのものであった。
荒い息を吐きながら、五郎は力なく床几に腰を下ろした。拳を握りしめすぎた掌には、自分の爪が食い込んだ跡が白く残っている。
「……殿。お疲れでございますな。福松様の方は、先ほど傷の手当てを終え、お休みになりました」
傍らに控えていた阿茶の静かな言葉に、五郎の肩が小さく跳ねた。秀忠を泥沼から遠ざけるために、自分は福松を、お愛の遺したもう一人の息子を、井伊直政と共に最前線の地獄へ放り込んだのだ。
徳川の強さを示すために、一人の息子を「贄」として血を流させ、もう一人の息子を「汚名」という名の盾で守り抜く。手柄を立てた福松を誇りに思う心と、彼に傷を負わせた己の冷酷さを呪う心が、五郎の内で激しくせめぎ合っていた。
(……お愛。私は、ひどい父親だな)
「家康」という名の怪物は、愛する者の血を啜らねば、その威光を保てぬらしい。五郎は暗い天幕の天井を見上げ、声にならぬ溜息を吐き出した。
しばらくの静寂の後、忠勝が低い声で切り出した。
「……殿。先ほど、半蔵より報せが届きました。石田三成、近江の古橋にて捕縛されました」
五郎の指が、香袋を強く握りしめた。
「……治部殿が、捕まったか」
「はっ。これより大津へと護送されます。……牢の警護はいかがいたしましょう。牢番含めて伊賀者で固めますか」
五郎は香袋を見つめたまま、一呼吸置いて答えた。
「……そうだな。……そうせよ」
五郎の瞳には、かつて「鞘」になると誓った友を、今度は「死」という最後の舞台へ送り出さねばならない、冷徹な覚悟が宿り始めていた。




