【第五話:関ヶ原の霧 —— 宿命の秤と、白檀の記憶】
慶長五年(一六〇〇年)九月十五日、早暁。美濃、関ヶ原。
立ち込める濃霧は、数万の兵の気配を呑み込み、視界を数歩先まで奪っていた。
五郎は馬上で独り、二十八年かけて築き上げてきた「徳川家康」という名の、あまりに重い鉄の仮面の重圧に耐えていた。
ふと、懐の香袋に触れる。
指先に伝わる白檀の香りが、霧を裂き、五郎を「五郎」であったあの午後の裏庭へと連れ戻した。
「……五郎様、またそのようなところまで」
縁側に佇むお愛の声は、いつもより少しだけ低く、柔らかかった。
泥だらけの手を袴で拭い、立ち上がる五郎。目の前の侍女に恋をしていた五郎は、彼女の前に出ると、どうしても指先が落ち着かなくなる。
「あ、いや……これは傷の化膿を止める草でな。……兄上のために備えておこうかと」
五郎の言葉に、お愛の表情からふっと温度が消えた。彼女は薬草を見つめ、それから遠い空へ視線を投げた。
「……五郎様の手は、人を治すためにあるのですね。……私は」
白檀の香袋を握りしめるお愛の指先が、微かに震えている。
「戦は、嫌いです」
それは、独り言のような小さな呟きだった。戦で父を失った彼女の古傷が、あまりに綺麗な空の下で疼いただけの、切実な呻き。
だが、その震える背中を見つめる五郎の胸には、別の響きが届いていた。
(……この御方は、私を求めておられる)
お愛がただ過去を嘆いただけの一言を、五郎はその実直さゆえに、自らへの「至上命題」として魂に刻み込んだ。彼女の視線の先に泰平の世を夢見たのは、お愛ではなく、彼女を救いたいと願った五郎自身であったのかもしれない。しかし、あの日、彼はそれを「約束」だと信じたのだ。
「……ああ、分かっている。約束だ、お愛」
五郎は彼女に聞こえぬ声で、一生を懸ける覚悟を込めて応えた。
お愛はただ、空を流れる雲を追っているだけだったが、五郎の掌にある薬草の茎は、その時、力強く握りしめられてひしゃげていた。
「殿。中山道を行く秀忠様、未だ届きませぬ。真田の小城に足止めを食らい、開戦には間に合いませぬ」
本多平八郎忠勝の、苦々しい報告が霧の中に響いた。徳川の本隊が欠けるという、将としては致命的な失態。だが、五郎は馬上で霧の向こうを見つめたまま、微かに口角を上げた。
(……間に合わぬか。それでよい、秀忠)
秀忠は、あの日お愛が命を懸けて遺した、五郎の「宝」だ。戦の勝ち負けなどどうでもいい、ただ、あの子をこの地獄のような泥沼に立たせたくない。正信が描いた「遅参」という名の不名誉な台本は、一人の父親としての五郎にとって、震えるほどの安堵であった。
しかし、その安堵はすぐに鋭い棘となって五郎の胸を刺す。
(……だが、秀康は違う)
北の下野の地。一番の難敵である上杉を抑えるため、もっとも危険な場所に置かれているのは、兄である「本物の家康」が遺した実の息子、結城秀康だ。武人として優秀なればこそ、あやつは退かず、今この瞬間も死力を尽くして戦っているだろう。
兄の息子を死地へ追いやり、自分の息子だけを安全な後方へ囲い込む。そのあまりに卑怯な「差」が、五郎の喉元に苦い泥のように込み上げた。
「殿、先陣の松平忠吉様も、井伊直政と共に布陣を完了しております。……お覚悟を」
忠勝の問いに、五郎は一瞬、呼吸を止めた。
忠吉——かつて福松と呼ばれた、お愛が遺したもう一人の息子。
徳川の威信を示すためには、あの子をも最前線に立たせ、手柄を立てさせねばならぬ。秀忠を隠した分、忠吉には「徳川の血」としての矜持を証明させる過酷な役目を与えた。
手柄を立てて欲しいという父としての誇りと、傷一つ負わせたくないという親としての祈り。その矛盾に、胸が裂けそうになる。
(お愛……。私は、お前にどのような顔をして会えばいい)
「……平八郎。私は、本当に嫌な男だな」
五郎は懐の白檀の香袋を、甲冑の上からそっと押さえた。
傍らに控える忠勝は、何も言わなかった。ただ、主君の背負う闇の深さを察したかのように、愛槍・蜻蛉切の柄を、みしりと音を立てて強く、強く握りしめた。その沈黙こそが、五郎への何よりの忠義であった。
「……行くぞ。徳川家康、最後の大芝居だ」
関ヶ原の霧がゆっくりと晴れ始める。そこには、世界で最も不器用な父親であり、世界で最も冷酷な嘘つきである「怪物」が、泰平の世を掴み取るために、静かに采配を振り上げていた。




