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『弟』〜家康は三方ヶ原で亡くなっていた。石川数正が仕掛けた徳川最大の虚構〜  作者: 滝丸
第三部:『影の昇華編』

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【第三話:呼び水 —— 騒乱の序曲】

慶長四年(一五九九年)、四月。伏見城。

正信から渡された暗号状を読み終えた五郎は、耐えがたい戦慄に突き動かされ、老軍師を秘密裏に呼び出した。


「……佐渡(正信)。一つ、聞きたい」

五郎は「家康」としての声を捨て、掠れた地声で問うた。

「……なぜ、わかった。二十余年、私は一日の休みもなく『徳川家康』という化け物の皮を被り続けてきた。数正の策に乗り、お愛に平穏な世を見せるため……私は己を殺し、一分の隙もなく本物に成り代わってきたつもりだ。その執念を、なぜ貴様だけが、はなから偽物だと断じたのだ」


正信は、指先にかけた黒革の紐――『鷹の緒』を弄ぶ手を止め、濁った瞳をゆっくりと五郎に向けた。

「……殿。私はね、鳥や獣を狩るのが好きなのです。獲物というものは、どれほど化けるのが上手くても、死に直面した瞬間にだけは『まことかたち』を晒すものでございますよ」

正信は、梯子の形に組んだ紐をふっと解いた。その口元に、歪な笑みが浮かぶ。

「殿、覚えておいでか。あの元亀三年の三方ヶ原を。……あの空城の計、皆は殿の勇気に震えましたが、私は震えが止まりませんでした。……あのような無茶な博打、あの方が打てるはずがない。あのとき、徳川を去っていた私は、旅籠はたごの隅でその報せを聞き、一人笑いましたよ。……あり得ぬ。あの方はあの日、死んだのだ。そして、代わりに『別の何か』が徳川の器に収まったのだと。……私は、その正体見たさに、再び浜松城に戻ってきたのです」


正信は五郎ににじり寄り、その瞳の奥を覗き込んだ。

「あの日そこにいたのは、権力に固執するわけでもない、ただ泰平を祈り、家臣われらの身をいたわる、お優しい『名もなき男』でございました。……殿、あまりに優しすぎたのですよ。数正殿のため、お愛様のため……その『誰かのために完璧であろうとする真心』こそが、貴殿が血の通わぬ本物の怪物ではない何よりの証にございました」



五郎は絶句した。三成が数年かけて暴いた真実を、この男はあの日の一報だけで看破していた。ならば――。

「……ならば、もう一つ。……治部(三成)との約束も、気づいているのか」


正信は、くくくと喉の奥で笑った。

「……殿、お戯れを。石田治部のような清廉な男が、あの日を境に急に『不忠の汚名』を厭わず暴れ出した。一方で、殿はあやつをかばう振りをして、着実に包囲網を敷いておられる。……お互い、嫌い合っているにしては、歩幅が合いすぎているのでございますよ」

正信は再び紐を繰り、今度は獲物を絡め取る「罠」の形を編み上げた。

算盤データを合わせる三成殿と、慈悲こころで動く殿。二人が手を取り合えば、結末は一つしかございませぬ。『巨大な戦を起こし、一気に掃除をする』。……実に、情緒に満ちた、美しすぎる脚本ではありませんか。……それゆえ、私には分かったのです。これは、私の愛した『偽物の主君』が考えそうな、甘くて悲しい化け合戦だと」



五郎は力なく、畳に手をついた。三成との共謀さえも、正信にとっては特等席から眺める演目に過ぎなかった。

「……私の二十年は、お前の手のひらの上の戯作げさくだったのか」

「いえいえ。だからこそ、面白いのです。……殿、拍子抜けなさるな。私は貴殿のその『甘い脚本』、決して壊しはいたしませぬ」

正信は、相変わらず退屈そうに指先の紐を弄んでいる。


「殿はただ、機嫌を損ねた『本物の家康』を、仰々しく演じておられればよろしい。殿が腹を立て、拳を振り上げれば、周囲が勝手に忖度していくさの準備を始めます。……戦というものは、理屈ではなく『空気』で起きるもの。綻びは、この佐渡守がすべて埋めて進ぜましょう」

正信はそれだけ言うと、一礼もせず、影が消えるように部屋を去った。

後に残された五郎は、三成という「友」との絆以上に、正信という「怪物」に魂まで所有されているような底知れぬ恐怖に震えた。

だが、その恐怖こそが、五郎を「完成された家康」へと押し上げていく。



正信の言葉通り、歴史は五郎の戸惑いを置き去りにして加速し始めた。

九月、前田利長らによる「家康暗殺」の噂。五郎は内心、「そんな馬鹿な」と驚きながらも、正信の教え通りに烈火のごとく怒ってみせた。すると、それまで様子を伺っていた諸大名が、次々と徳川への忠誠を誓い、伏見に詰めかけてくる。


年が明け、慶長五年(一六〇〇年)――。

五郎の意志とは無関係に、世が血を求めて動き出していた。

四月、会津の上杉景勝が領内で武具を集めているという報告が入る。

五郎が「無礼なり」と一喝して書状を送れば、直江兼続から「直江状」と呼ばれる、これ以上ないほど挑発的な返信が届いた。

(……正信の言う通りだ。私が声を上げ、騒ぎ立てるだけで、世界がその音に合わせて踊り出す)

五郎は、鏡の中の「徳川家康」という怪物を見つめた。もはや五郎という小舟は、徳川という濁流に飲み込まれ、舵を失っていた。



「会津を討つ。全軍、北へ向かうぞ」

六月、五郎はついに、上杉討伐を決意した。

だが、これは上杉を滅ぼすための戦ではない。五郎と三成、そして正信が共有する、巨大な「呼び水」であった。

徳川の主力が江戸を通り過ぎ、さらに北へ向かう。それは、西国の武士たちに「今こそ手薄な家康の背を突け」と誘惑する、最大の餌に他ならない。

(……どこだ。治部殿、お前はどこで兵を挙げる。どこを、この地獄の終着点にするつもりだ)

五郎は、黄金の具足を纏いながら、心の中で三成に問いかけた。

鎧の重さは、そのまま自分がこれから殺めることになるであろう、数万の命の重さであった。

お愛という魂の聖域を守るために、五郎は自ら地獄への扉を開いた。

その背後で、正信がまた一つ、指先の紐を複雑に絡ませ、誰も逃れられぬ「罠」の形を完成させていた。

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