【第二話:演出家の掌(たなごころ) —— 算盤と暗号状】
慶長三年(一五九八年)、八月。
太閤秀吉の死という巨大な穴を埋めるべく、伏見城の一室で二人の男が対峙していた。
「……治部殿。このままでは、日の本は再び戦の炎に包まれるぞ」
五郎(家康)の声は、薬を煎じる音の中に静かに沈殿した。
「心得ております。ゆえに、我らでこの『戦』を描き直そうではないか」
石田三成は、水晶の数珠をカチ、カチと指先で弾きながら、理の狂った盤面を提示した。
「それがしが徹底して不忠の汚名を被り、嫌われ役を引き受けましょう。貴殿は、それを裁く静謐の主となられよ。……戦という名の舞台を整え、争いを好む諸大名を一息に掃き清めるのです」
二人の「偽物」による、世界で最も優しい共謀が、ここから始まった。
その後、歴史は二人の書いた筋書き通り、あまりに滑らかに動き始めた。
「無断で大名同士の婚姻を結ぶとは何事かッ!!」
伊達、蜂須賀、福島らとの勝手な縁組を進める五郎に対し、三成が諸大名の前で激しく叱責する。五郎は「老骨ゆえの失念」と惚けてみせた。
側から見れば、徳川と石田の関係は修復不可能、戦は秒読みと誰もが信じた。
だが、慶長四年閏三月。
均衡を保っていた前田利家が世を去ったことで、事態は「台本」以上に加速する。
三成の苛烈すぎる正論に耐えかねた加藤清正ら七将が、ついに三成の屋敷を襲撃したのである。
五郎は、逃げ込んできた三成を自らの屋敷へ保護し、佐和山への蟄居を勧めた。世間は「家康公の慈悲」と持て囃したが、三成が去った後の書斎で、五郎は独り頭を抱えていた。
「治部殿が表舞台から消えては、これからの『掃き清め』を誰が指揮するのだ。……これでは算盤が合わぬ」
その時、足音もなく襖が開いた。
「……殿。お困りのご様子。算盤の玉が、どこかへ転がってしまいましたかな」
入ってきたのは、本多正信である。その指先には、使い込まれた黒革の紐――『鷹の緒』がかけられていた。
正信は無言のまま、指を複雑に動かし、紐で「梯子(野心)」の形を作ってみせる。
正信は五郎の戸惑いなど一顧だにせず、文机の端に一帖の薄い冊子を置いた。
「これは……?」
「兵糧の『隠し帳面』を読み解くための指南書にございます。これがないと、数字の裏にある『真の意図』は読み解けませぬゆえ」
正信はそれだけ言うと、然もあらんという体で不気味な笑みを残して部屋を去った。
翌日、正信の息子・本多正純が部屋を訪れた。
「父より、殿へ。来たるべき天下分け目の一戦に向けた兵站の最終報告書にございます。……私には、父の書く数字の羅列は、いささか情緒的すぎて理解できませぬが」
正純は事務的に書状を置き、一礼して去った。
彼は、自分が仕えている主君が「偽物」であることなど、微塵も疑っていない。
五郎は、昨日正信が残していった『指南書』を傍らに開き、その暗号じみた報告書を解読し始めた。最初は兵の数や米の量。だが、指南書の法則に従って文字を拾い上げていくと、そこには全く別の「声」が浮かび上がってきた。
『三方ヶ原の夜のことを覚えておいでか。あのような無茶な博打、あの方が打てるはずがない。……あの日から今日まで、貴殿が必死に「家康」を演じる様を、私は特等席で見物させていただきましたよ。……私はあの日、算盤を捨てました。貴殿の瞳に宿る「泰平」という名の、解けぬ数式に命を預けようと決めたのです』
五郎の手から、筆が落ちた。
自分の正体が、二十年も前からこの男に覗き見られていた。
三成が「算盤(論理)」で暴いた真実を、この男は「鷹の目(本能)」でとうに確信していたのだ。
五郎の顔から一切の表情が消えた。三成という「友」との共謀よりも、正信という「怪物」に魂まで見透かされていた事実に、言いようのない戦慄が背筋を走り抜けた。
「……殿、お茶を」
阿茶局が静かに部屋に入ってきた。五郎は震える声で、正信がすべてを知っていたことを打ち明けた。
「阿茶……私は、そんなに分かりやすく家康ではなかったのか。あやつには、初手より、そのすべてを見透かされておったということか」
五郎の問いに、阿茶は少し困ったように微笑み、お茶を差し出した。
「いいえ。私はお愛様が打ち明けてくださるまで、貴方様を『本物』だと信じて疑いませなんだ。……あのお方は、人ではございませぬ。蛇の如き目を持つ、あの方だけが特別なのです」
阿茶は五郎の横に座り、そのこわばった肩にそっと手を置いた。
「正信殿は……歪んだ、あまりに歪んだ愛情で、貴方様を想っておいでなのです。自分が拾い上げた『偽物』が、本物を超えて天下を治める。その壮大な戯作を完遂させることだけが、あの男の生きがいにございます」
五郎は、かつて正信が漏らした言葉を思い出した。
『泥を被るのは、我ら家臣の役目。殿はただ、その黄金の具足を汚さず、神の如く座しておられればよろしい』
「……そうか。あやつは私に、最高の神になれと言っているのだな」
五郎は、机の上の暗号状をじっと見つめた。
三成との「共謀」が崩れかけ、歴史が濁流となって押し寄せる今、この不気味な軍師が差し出した「台本」に乗るしかない。
五郎はゆっくりと顔を上げ、再び「徳川家康」の仮面を強く被り直した。
「阿茶。正信を呼べ。……あやつの策に、溺れてやるとしよう」
泥を啜るのは家臣、輝くのは主君。
正信という演出家が用意した「天下分け目」の最終幕へ向け、五郎は一歩を、重く踏み出した。




