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『弟』〜家康は三方ヶ原で亡くなっていた。石川数正が仕掛けた徳川最大の虚構〜  作者: 滝丸
第三部:『影の昇華編』

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【第三部第一話:共謀の夜 —— 毒と鞘、肯定の萌芽】

慶長三年(一五九八年)八月、伏見城・徳川屋敷。


太閤秀吉がこの世を去り、天下の均衡が音を立てて崩れようとする、嵐の前の静寂。その闇の奥で、歴史上最も奇妙な「共謀」が産声を上げようとしていた。



五郎は白湯の椀を見つめたまま、重く口を開いた。

「……治部(三成)殿。一つ、問いたい。私の仮面は、それほどまでに脆かったか。数正に叩き込まれた二十余年、私はそんなに分かりやすく、兄上(家康)とは違うのか」


三成は自嘲気味に、細い指先で自身の額を叩いた。

「いいえ。世の九割九分の者は、貴殿を『神君・家康』と信じて疑いませぬ。貴殿の演じぶりは、もはやこの世のことわりを超えている。……ただ、それがしという男は、生まれつき『勘定の齟齬そご』を見過ごせぬたちにござる。某には、世の中が算盤そろばんの盤面に見える。一に一を足せば、必ず二になる。だが、貴殿の経歴や側室の数には、どうしても一に一を足して三と言い張るような、不自然な『算盤の狂い』が生じていた」


三成は水晶の数珠をカチ、カチと鳴らし、至極淡々と、しかし執拗なまでの「理」を口にした。

「その狂いが気に食わず、某はこの数年、豊臣の威を借りてあらゆる記録を穿うがち申した。今川の古き禁裏の記録、松平の家譜の写し、さらには三河の古刹に遺された布施の帳面に至るまで、ことごとく紐解いて参った。そうして、ようやく見つけ出したのだ。歴史の帳尻を合わせるために、あえて『ぜろ』として消された、貴殿という一人の『個』を」


三成はふと思い出したように、無遠慮な問いを投げかけた。

「……して、五郎殿。貴殿の母君は、息災か」

五郎の手が、ぴたりと止まった。

「……知らぬ。寺に預けられた不義の子に、親の名を問う資格などない。……私は、生まれてきてはならぬ子だったのだ。名も知らぬ母の腹から出、家中や今川への聞こえを恐れた父によって闇に葬られた恥晒しだ。母が誰かも知らず、ただ『死んだもの』として、今日まで影のように生きてきた」



「……やはり、貴殿はに暗い」

三成は溜息をつくと、懐からあの古びた冊子——『松平広忠公 御自筆家譜草案』を広げた。

「貴殿の母君は、家康公の生母・於大おだいの方様の、腹違いの妹君にござる。広忠公は、政上の事情で於大様と離縁された直後、あろうことかその妹君を召された。離縁して間を置かず妹に手を付けるなど、家中のみならず今川へも到底顔向けのできぬ醜聞しゅうぶん。ゆえに、貴殿の存在は誕生の前から徹底して隠蔽いんぺいされねばならなかったのだ」


五郎は息を呑み、三成の手元を凝視した。

「だが、この草案を見るがよい。広忠公は、貴殿が男か女かも分からぬ折……すなわち、貴殿が生まれる前から、自筆でこの『五郎』という名を家譜に記しておられた。生まれる前から名を準備する父君が、その子の誕生を呪うはずがありませぬ。広忠公は、貴殿の誕生を心から喜び、慈しもうとされた。だが、体裁がそれを許さぬ。ゆえに、広忠公から貴殿を託された本多忠真殿は、あえて『死産』という大嘘を吐いて貴殿を歴史から消し、その命を繋いだのだ。すべては貴殿を生かすための、父君と忠真殿の決死の策にござる」


五郎の視界が、不意に滲んだ。溢れそうになる涙が、囲炉裏の火に照らされて光る。

「そして、この無残な墨の跡だ」

三成は、執拗なまでに塗り潰された箇所を指でなぞった。

「豊臣にこの家譜を提出する直前、誰かがこの名を必死に隠した。……おそらく、石川数正殿であろう。あの方は、貴殿が『五郎』であることを、死ぬまで豊臣の目から隠し通そうとした。この墨は、数正殿が貴殿に遺した最後の『仕掛け』であり、……最後の愛にござる」



五郎は堪えきれず、顔を覆った。嗚咽を押し殺し、震える肩を見て、三成はハッとして数珠を握りしめた。


「……ああ、やはりそれがしは愚かだ。また、余計なことを申したか。……済まぬ、五郎殿」

三成はうなだれ、苦い顔で白湯を煽った。

「某はいつもこうだ。人の心も考えず、算盤の答えを突きつけることしかできぬ。……某の言う正論は、常に人の触れられたくない傷を抉る。某がこうして『答え』を口にするたび、相手は怒り、私を遠ざける。……某には、背中を預けられる友など一人も居らぬ。それが、某のごうなのだ」


その時。五郎の右手が、吸い寄せられるように懐へと滑り込もうとした。 だが、指先は中へは入らず、ただ胸元の虚空を一瞬だけ、きゅっと、何かを確かめるように強く掴んだ。

次の瞬間、その手は迷いを断ち切るように三成の細い指の上に重なった。 五郎は涙を拭い、静かに、しかし力強い笑みを浮かべた。


「……違うぞ、治部殿。私は怒ってなどいない。救われたのだ」

「……某の理屈が、救いだと?」

「そうだ。私の人生は、呪いから始まったと思っていた。だが、貴殿が暴いてくれた『理』のおかげで、私は生まれて初めて、自分を許すことができた」

五郎は三成の目を真っ直ぐに見据えた。

「貴殿のその『正論の毒』は、そのまま出せば人を殺すが、正しく使えば私のような迷い子を救う薬になる。……治部殿。貴殿の正論、これからも私にぶつけてくれ」

「……しかし、それでは貴殿まで敵を増やすことに……」

「構わぬ。貴殿が『毒』ならば、私はそのやいばを収める『さや』になろう」

三成が息を呑む。五郎の声に、迷いはなかった。

「貴殿が暴く冷徹な真実を、私が『慈悲』という名の衣で包み、誰も傷つかぬ『方便ほうべん』として世に流す。貴殿が斬り、私が収める。二人で一つだ。……それでこそ、この欺瞞ぎまんに満ちた乱世を、共に騙し抜けるというものだ」

三成は呆然と五郎を見つめた。自分の欠点だと思っていた鋭すぎる刃を、肯定し、引き受けると言った男。三成は初めて、自身の理屈っぽさが、この「偽物」の隣でなら意味を持つと感じたのである。

「……某を斬らせ、貴殿がそれを収める、と。……ふっ、実に見事な計算違いだ。貴殿という御方は」

三成は初めて、若者のような清々しい笑みを浮かべ、ゆっくりと頷いた。

「……承知いたしました。某のこの目、貴殿のその手。……合わせれば、日の本の形を塗り替えることもできましょう。……徳川殿、いや、五郎殿」

暗い部屋の中で、二人は静かに、対等な友として頷き合った。 秀吉が逝った直後の混沌の中、歴史上最も強固で、最も奇妙な「共謀関係」が、ここに産声を上げたのである。


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