【番外編:跳ねる海老、揺れる軍師 —— 酒井左衛門尉、魂の開眼】
いつもお読みいただきありがとうございます。
本日の物語は虚構のなかの虚構でございます。
本文中の五郎とは、何の関係もございませんw
天正九年、正月。浜松城、奥の間。
瀬名と信康の処断から一年余り。悲しみを乗り越え、徳川が再び一丸となって進むべき年。新年の静かな直会の席が終わり重臣が下がった後、その事件は起きた。
徳川四天王の筆頭、酒井左衛門尉忠次が、一滴の酒も飲まずに異様な殺気を放ち、膝をガクガクと震わせていたのである。
「……殿。……数正。……拙者はもう、限界にございます」
酒井の声は地を這うように低く、その眼光は鋭い。
石川数正は嫌な予感がして、持っていた徳利をそっと置いた。
「酒井殿。……何が限界なのです。まさか、織田の理不尽への憤りか、はたまた武田との決戦への焦りか」
「違うわ! ……拙者は、この一年半、喪に服して一度も『えびすくい』を踊っておらぬのだ! 殿が寺上がりで真面目すぎるゆえ、拙者も空気を読んで自重しておったが……もう、背中の海老が『跳ねさせろ』と叫んでおるのだ!!」
「酒井殿、声を控えよ! 殿は今、ようやく心を落ち着けて写経に励んでおられるのだぞ!」
数正が必死に嗜めるが、その横で筆を走らせていた五郎が、ふと顔を上げた。
「……数正。……良いではないか。酒井殿のその『海老』とやらの叫び、無視するのは仏の教えに背く。……やってみるが良い、酒井殿。其方の心の内の海老を、新年の空へ解き放つがよい」
「殿……! 有難き幸せ!」
酒井は待ってましたとばかりに立ち上がると、どこから取り出したのか、精巧な木彫りの海老を両手に持ち、凄まじいキレで踊り始めた。
「あ、えびすくい、えびすくい! どんどん跳ねろよ、徳川の運気! 掬って、掬って、福を掬え!」
「……えっ、キレが凄すぎる」
と、五郎が呆然と見守る。
酒井の腰の動きは、もはや老将のそれではない。完全に「海老そのもの」と化している。
「数正! お主も踊れ! 殿の沈んだお心を、この海老の跳躍で吹き飛ばすのだ!」
「断る。拙者は今、今後の戦費の計算で忙しいのだ。それに、そんな端から見て正気を疑うような踊りなど……」
数正が冷たくあしらうが、ここで五郎の「修行スイッチ」がオンになった。
「……待て、数正。この踊り……ただの遊興ではないな。……この腰の低さ、重心の移動。……これは、戦における『歩法』の極意ではないか!? さらには『福を掬う』という利他の心。……酒井殿、これは『動く禅』だな!?」
「……えっ、殿? そこまで深く考えてませんが……」
「いや、分かるぞ! 酒井殿、私もやろう! 徳川の安寧を願い、一意専心に海老を掬うのだ!」
五郎は袴を捲り上げ、大真面目な表情で酒井の隣に並んだ。
「あ、えびすくい! 南無阿弥陀仏、えびすくい! 煩悩を掬い捨てろ、えびすくい!」
五郎の踊りは、寺の修行で培われた「体幹」が活きすぎており、酒井よりも無駄に重厚で、無駄に神々しい。
「……酒井殿! 私は今、海老と一体になったぞ! 掬うたびに、己の中の迷いが消えていくようだ!」
「はっ、殿! さすがはお目が高い! もっと腰を落として、海老の『触覚』を意識してくだされ!」
「心得た! うおおおお、えびすくい!!」
二人の男が、深夜の広間で汗だくになりながら海老を掬い続ける。
その光景は、もはや「楽しい宴」ではなく、「海老を本尊と崇める新興宗教の儀式」にしか見えなかった。
数正は、折れた筆を手に、白目を剥いて天を仰いだ。
「…………殿。……酒井殿。……お願いだ。……せめて、明日の朝議までに、その海老を捨ててくれ。……阿茶が来たら、なんと説明すれば良いのだ……」
翌朝。
阿茶が奥の間に入ると、そこには、完璧に整えられた庭のように静まり返った広間で、正座して「海老の悟り」について真面目に語り合う五郎と酒井の姿があった。
「……数正様。殿の腰が、異様に据わっておいでですが。何か新しい武術の修行でも?」
阿茶の問いに、数正は震える声で答えた。
「…………『えびすくい』だ。……もう、何も聞かないでくれ……」
数正の胃痛は、春を待たずして限界に達したのであった。




