【第二十二話:濁りなき鏡 —— 秘密の完結、そして約束】
慶長元年(一五九六年)十月。京都、桜井。
かつて徳川の重鎮として、五郎という「偽物の主君」の実務を支え続けた育ての親、酒井左衛門尉忠次の隠居所は、驚くほど静かであった。
今、この部屋にいるのは、死の淵にある忠次と、その手を取る「家康(五郎)」、そして背後に跪く本多忠勝。ただ三人だけであった。
「……お越しに……なりましたか」
薄暗い部屋の奥。布団に横たわる忠次の瞳は、白く濁り、もはや光を捉えることはできない。
五郎は、静かにその手を取った。かつて三方ヶ原で太鼓を打ち鳴らし、絶望の淵から徳川を救った、あの節くれだった、力強い手だ。今は、枯れ木のように細く、震えている。
「左衛門尉(忠次)。無理をせずともよい。……江戸から、お前の顔を見に来た」
五郎の声は、家臣たちの前で見せる「冷徹な家康」のそれではなく、どこか幼い、震える響きを孕んでいた。 忠次は、見えない瞳を彷徨わせ、五郎の手を愛おしそうになぞった。
「……五郎、殿……。徳川を……よろしく……頼みます……」
忠次の、光を失った瞳から一筋の涙がこぼれた。
その呼び名に、五郎の身体が石のように硬直する。
「……何を仰る、左衛門尉。私は、家康だ。お前の主君だ」
五郎の声は、冷徹な仮面を維持しようとして、かえって不自然に震えた。
お愛を亡くし、数正を失った今、自分の正体を最初から知る「親」は、この忠次だけだ。彼が逝けば、自分は永遠に「家康」という怪物の中に閉じ込められる。その恐怖が、五郎を拒絶へと走らせた。
だがその時、背後から低く、大地を揺らすような声が響いた。
「……殿。もう、よろしゅうございます」
五郎が驚き、振り返る。そこには、蜻蛉切を傍らに置き、深々と頭を垂れる本多忠勝の姿があった。
「……酒井様。あの日、三方ヶ原から幾月かが過ぎた浜松の夜に、私が貴方様を問い詰め、聞き出した秘密。……今日まで、一分たりとも忘れたことはございませぬ」
五郎の息が止まる。
「……知っていたのか。お前……二十年以上も、ずっと……」
「はっ。あの日、回廊で酒井様に申しました。『あの方は、生まれながらの主君の瞳ではない。何かを奪い、何かを失った、影の瞳だ』と。……そこで、全てを伺いました。貴方様が、兄君の遺志を継ぐために名を捨て、地獄を歩むと決められた五郎様であることを」
五郎の膝が、がくんと畳についた。
目の前の男は、徳川最強の武士だ。その男が、自分の「嘘」を全て知った上で、この長い年月、一度も顔色を変えず、自分を「本物の主君」として立て、盾となって戦場を駆けていた。
「平八……。なぜだ。なぜ、偽物だと知りながら……私を助けた」
忠勝は、こらえきれぬように肩を震わせ、畳を拳で叩いた。
「……数正殿の、あの『影向之次第』を読みました。あやつがどれほどの泥を被り、殿を神に仕立てようとしたか。……私はそれを知らず、あやつを裏切り者と蔑み、憎んで生きてきた。そのことが、……そのことが、不甲斐なくて……っ!」
これまで、どんな戦場でも決して涙を見せなかった「金剛の盾」が、子供のように声を上げて泣いた。数正への申し訳なさ、五郎に背負わせ続けた重圧への後悔。そのすべてが、熱い涙となって溢れ出した。
五郎は、呆然と部屋の隅を見つめた。
あの「入れ替わり」の夜、数秒で自分を偽物と断じた服部半蔵。
自分を演出した数正、実務を整えた忠次、心を救ったお愛、秘密を分かち合った阿茶。
そして、すべてを知った上で「盾」であり続けたこの忠勝。
(……私は、独りではなかったのだ)
自分が孤独に震えながら演じていた舞台の裏側で、彼らは手を取り合い、一滴の綻びもなく自分を「家康」として守り続けてくれていた。五郎という人間は、彼ら全員の「愛」によって生かされている、一つの大きな祈りそのものだった。
忠次の口元が、わずかに、本当にわずかに微笑んだように動いた。
「……平八郎……。頼む、ぞ……」
忠次の手が、五郎の手の中で、ふっと力を失った。
徳川の柱石が、その重い役割を終えた瞬間であった。
「……ああ……。ああああああ……!」
五郎の喉から、二十年分の「五郎」が溢れ出した。
忠次の亡骸に縋り付き、慟哭する五郎。
仮面が割れ、一人の「弟」に戻った主君を、忠勝は何も言わず、ただその大きな背中で、部屋に漏れる月光を遮るようにして守り続けた。
しばらくして、涙を拭った忠勝が、静かに五郎の隣に並んだ。
「……殿」
「……何だ、平八郎」
「……いつの日か。この戦乱を終わらせ、殿が天下をその手に収められた時。……共に、数正殿の墓へ参りましょう」
五郎は、亡き忠次の穏やかな死に顔を見つめ、それから忠勝の目を見返した。
「……ああ。約束だ。その時は、数正に……『お前の書いた脚本は、最高だったぞ。誰も、最後まで暴けはしなかった』と、皆で笑って伝えてやろう」
慶長元年、秋。
徳川の「嘘」は、悲しみを超え、天下泰平という一つの目的へと、揺るぎない覚悟に変わった。
五十四歳の仮面を被った、四十七歳の五郎。
彼は、亡き親たちの遺志を胸に、再び「家康」という名の重い鎧を纏った。その隣には、主君の正体を知り、なおも命を捧げる最強の盾が、凛として立っていた。




