【第二十一話:演出家の終幕、仮面の告白】
江戸城の仮住まい。
五郎は、半蔵から受け取った密書を、火鉢の火に投じた。
石川数正が死んだ。
豊臣へ走り、徳川を「売る」ことで、五郎を完璧な怪物へと成し遂げた男。五郎にとって数正は、自分から「五郎」を奪い去った仇であり、同時にこの地獄を共に歩んだ唯一の師でもあった。
「……殿。少々、よろしいでしょうか」
阿茶局が、静かに部屋に入ってきた。その手には、大坂からの正式な訃報が握られている。
「……阿茶か。数正のことなら、先ほど半蔵から聞いた」
「左様でございましたか……。あのお方の最期、さぞかし無念であったことでしょう」
五郎は何も答えず、ただ赤く燃える炭を見つめていた。数正が死んだことで、自分の「正体」を最初から知っていた者は、今や京都に隠居した酒井忠次ただ一人となった。
その時、廊下から地響きのような足音が近づき、襖が勢いよく開いた。
本多平八郎忠勝であった。
「殿! ……石川数正が、死にました」
忠勝の声は、いつになく震えていた。
彼は、酒井忠次から受け継いだ『影向之次第』により、数正の裏切りがすべて、五郎を守るための命懸けの演出だったことを知っている。
忠勝は、五郎の前に手をつき、畳が凹むほど強く拳を握りしめた。
(数正殿……。貴方は、これほどまでに、独りで地獄を背負っておられたのか)
忠勝は叫びたかった。五郎に対して、「あやつは裏切り者ではなかった、貴方を一番に想っていたのだ」と。そして、今まで数正を憎んできた己を恥じ、五郎の代わりに謝罪したかった。
だが、それを口にすれば、自分が「五郎の正体」を知っていることが露見してしまう。五郎は、忠勝が真実を知らぬと信じているからこそ、彼を「金剛の盾」として頼っているのだ。
「……平八郎。なぜ、それほどまでに震えている」
五郎が、訝しげに目を細めた。
「数正は、我らを捨てた男だ。お前がそこまで嘆く謂れはあるまい」
「……いえ。……ただ、かつての同僚が、異郷の地で果てたことが……口惜しく」
忠勝は絞り出すように答え、逃げるように部屋を去った。その背中に宿る異常なまでの後悔の念を、五郎は不審に思わずにはいられなかった。
その夜。
五郎は独り、暗い部屋で亡きお愛の香袋を握りしめていた。
すると、阿茶がしめやかに現れ、枕元で静かに香を焚き始めた。
部屋に満ちていくのは、五郎が最も愛し、そして最も恐れる香り。
白檀である。
「……阿茶、何をする。その香は……」
「お愛様から、預かっておりました。殿が、独りきりの闇に耐えられなくなった時に、焚いて差し上げろと」
阿茶は、五郎の目を真っ直ぐに見据えた。
「お愛様は、死の間際、私にすべてを打ち明けて行かれました。……五郎殿」
五郎の心臓が、大きく跳ねた。
「五郎」……お愛が死んで以来、誰も口にすることのなかった、自分の本当の名前。
「お前……今、何と……」
「お愛様だけではございません。酒井様も、私に口止めをなされておりました。『殿が江戸の地で、独りで立たれる覚悟が決まるまで、決して明かすな』と」
阿茶は五郎の隣に座り、その震える手に、自らの手を重ねた。
「……もう、家康公を演じなくて良い時間は、私が作りましょう。私は、貴方様が怪物でも神でもなく、ただの五郎殿であることを知っております」
五郎の顔から、強張った「家康」の仮面が剥がれ落ちていった。
数正が去り、忠次が去り、お愛が去り……世界に独りきりだと絶望していた五郎の前に、新しい「共犯者」が立ち現れた瞬間であった。
「……阿茶。私は……私は、怖かった」
五郎は子供のように、阿茶の膝に顔を埋めた。
白檀の香りと、お愛が遺した「新しい絆」。
四十三歳の五郎は、江戸の闇の中で、ようやく本当の息を吐くことができたのである。




