【第二十話:泥の貴公子、血の絆】
文禄元年(一五九二年)。
江戸の町は、五郎の指揮のもとで驚異的な速さでその姿を変えつつあった。
広大な湿地は干拓され、規則正しく引かれた堀には清らかな水が流れ始めていた。かつての泥沼は、力強い鼓動を刻む都市の肺胞へと生まれ変わっていた。
その日、五郎は日比谷の埋め立て現場で、人夫たちに混じって土木作業の指図をしていた。額には汗が滲み、着物は泥に汚れ、どこから見ても一国の太守には見えない。
「――父上。いえ、徳川殿。相変わらず、土を愛しておいでですな」
背後から響いた、凛とした声。
五郎が振り返ると、そこには見目麗しい一人の若武者が立っていた。結城家の名跡を継ぎ、羽柴の養子として大坂で揉まれた、結城秀康であった。
五郎の脳裏に、かつての記憶が蘇る。
秀康が秀吉のもとへ養子に出される直前、山寺の墓前で会った時のことだ。当時まだ幼子であった秀康は、これから始まる過酷な運命をすべて悟ったかのように、一切の涙を見せず、凛として五郎の前に立っていた。その早熟な少年の瞳に、五郎は「本物の血」が持つ凄みを感じ、背筋を正したことを覚えている。
あれから数年。二十歳となった秀康は、今や父(叔父)である五郎よりも背が高く、その瞳には亡き兄・家康に似た、射抜くような強い光を宿していた。
数正がその出自を隠すため、あえて一歳若く届け出たその体躯は、まさに徳川の正統なる血筋としての威容を誇っていた。
「……秀康か。よくぞ参った。大坂の煌びやかな風に慣れたお前には、この江戸の泥は、さぞかし鼻につくだろう」
五郎は手ぬぐいで顔の泥を拭い、照れくさそうに笑った。秀康は、父のその「家康」らしからぬ泥まみれの姿を、眩しそうに見つめた。
「いいえ。大坂の城は黄金で飾られておりますが、足元は浮ついております。ですが、この江戸の土は……父上の手の温もりがいたします。この地を歩いていると、何故か心が安らぐのです」
秀康はそう言うと、自らの高価な袴が汚れるのも厭わず、五郎の隣に歩み寄った。二人は、まだ石垣すら満足に積まれていない本丸の端に腰を下ろした。
五郎は懐から胃の腑を整える丸薬を取り出し、一粒秀康に握らせた。
「……飲んでおけ。大坂の酒は、体に毒だ」
秀康は黙ってそれを口に含んだ。苦い。だが、その苦みの中に、かつてあの山寺で嗅いだ白檀の香りが、微かに混ざっているような気がした。
「父上……。私は大坂で、多くのことを見聞きいたしました」
秀康は、遠く広がる江戸の海を見つめたまま、声を落とした。
「太閤秀吉様は、父上のことを『得体の知れぬ怪物』と評しておられます。戦えば勝てるが、その魂の底が見えぬと。……ですが、私にはわかります。父上がここで何を築こうとしておられるのか」
秀康は、五郎の泥に汚れた分厚い手を見つめた。
「貴方様は、誰のためでもない、私たちがいつか還るための『家』を造っておられるのですね」
五郎は、何も答えなかった。
秀康が、自分の正体にどこまで気づいているのかはわからない。だが、この若者の血管に流れているのは、五郎が守り抜こうとした兄・家康の血であり、お愛が慈しんだ「徳川の未来」そのものであった。
「秀康よ。お前は結城の名を継いだ。だが、お前の中に流れるものは、誰にも奪えぬ。……いずれこの江戸が完成した時、そこにはお前の居場所がある。この泥が乾いた後には、千年の泰平に耐えうる、強固な石垣が残るはずだ」
五郎の言葉は、父としての情愛であり、同時に「本物の血」に対する祈りでもあった。
「はい。……私も、この江戸のような、何事にも揺らがぬ男になりたいと存じます」
秀康は立ち上がり、父に向かって深く一礼した。
その背中は、もはや守られるべき子供ではなく、いつかこの江戸を、そして日本を背負って立つべき一人の漢のそれであった。
秀康が大坂へ帰るのを見送った後、五郎は再び、ぬかるんだ土の中に足を踏み入れようとした。
「――殿。そのあたりで、よろしいのでは」
背後から、低く、どこか冷ややかさを孕んだ声がした。 振り返ると、そこには鷹のような鋭い眼光を持つ男が、少し脚を引きずりながら立っていた。
本多佐渡守正信である。
かつて三河一向一揆で家康に背き、長き放浪の末に帰参したこの男は、今や徳川の政務のすべてを差配する「脳」として、五郎の傍らに深く根を張っていた。
「……正信か。普請の進み具合を見に来たのか」
「いいえ。殿がまた、太守の座を忘れて泥遊びに興じておられると聞きましてな。……阿茶殿が、新しい小袖を無駄にすると嘆いておられましたぞ」
正信は皮肉げに口角を上げたが、その瞳は、五郎が先ほどまで秀康と座っていた場所を静かに射抜いていた。
「……秀康様は、良い目をなさっておいでだ。亡き兄公の面影を、実によく継いでいらっしゃる」
正信がさらりと口にした「兄公」という言葉。
五郎は一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。
「……何のことだ。秀康は私の息子だ」
「左様。表向きは、その通りにございます」
正信は深く追及せず、代わりに懐から一通の書状を取り出した。
「秀吉様より、さらなる渡海の催促にございます。……殿。これよりは、泥をいじる手ではなく、算盤と筆を握る『怪物』に戻っていただかねばなりませぬ。あのお方は、貴方様のその『静かな目』を何よりも恐れておいでなのですから」
五郎は正信の手に渡された書状を無言で受け取った。 この男、本多正信だけは、五郎がどれほど完璧に「家康」を演じようとも、その仮面の裏にある「名もなき小僧」の素肌を、面白がるように見透かしている節があった。
数正が去った後、五郎が独り言のように漏らす薬草の知識や、ふとした瞬間に見せる慈悲を、正信はすべて「徳川の利益」という冷徹な計算式に書き換えてくれる。
「……正信。後のことは任せる」
「はっ。泥を被るのは、我ら家臣の役目。殿はただ、その黄金の具足を汚さず、神の如く座しておられればよろしい」
懐の香袋は、少しずつ香りを失いつつあった。だが、秀康が残していった「温もり」と、正信が突きつける「冷徹な現実」が、五郎を天下という舞台の主役へと押し戻していく。
四十三歳の五郎。 彼は今、お愛との約束を、そして数正が遺した執念を、「江戸」という揺るぎない形に刻みつけるため、再び嘘の海へと漕ぎ出すのであった。




