【第十八話: 業の娘、亡き人の残り香】
天正十八年。
聚楽第にて朝日姫が身罷り、豊臣と徳川を繋いでいた細い糸は、静かに、しかし冷酷に断ち切られた。
兄・秀吉の野望の道具として差し出された彼女を、憐れまぬわけではない。だが、冷え切った五郎の胸に去来したのは、一人の女の死を惜しむ血の通った悲しみではなく、舞台の装置が一つ消えたのを見届けるような、虚ろな感慨のみであった。
その死を悼む間もなく、時代は荒々しく動き出す。
天正十八年(一五九〇年)、小田原。 湿り気を帯びた梅雨の夜、五郎は陣幕の中で、自ら調合した極苦の薬草を噛み締めていた。 舌を刺すような苦味だけが、今、自分が生きていることを教えてくれる。
お愛という、この世で唯一の「真実」を失ってから一年。
世間が「神君」と仰ぐ徳川家康は、四十八歳の老獪な実力者として天下を睥睨している。だが、その鎧の下にある五郎の肉体は、ようやく不惑を越えた四十一歳に過ぎない。
三方ヶ原で身代わりとなって以来、十八年。
鏡に映る男は、白髪の混じり始めた、見覚えのない「怪物」であった。
「……あと、何年だ。あと何年、私はこの死人の名前を貸し出せばよい」
懐にある白檀の香袋を握りしめる。だが、そこに宿っていたはずの彼女の温もりは、もう指先をすり抜けて久しい。ただ、虚しい香りが、今の五郎を鋭く刺す刃となって襲う。
包囲された小田原城内にいる督姫。
彼女は、かつて石川数正が「徳川の血を絶やさぬため」と称し、五郎に強いた『家康としての義務』の結果、この世に現れた命だ。
寺育ちの五郎にとって、お愛以外の女を知ることは、魂を泥で汚されるに等しい暴挙であった。督姫の存在は、五郎が「五郎」であることを完全に捨て、「家康」という怪物に成り果てた夜の傷跡そのものである。
本来ならば、その顔を見るだけで忌まわしい過去が蘇り、遠ざけたくなるはずだった。
だが、人は道理だけで割り切れるものではない。
五郎に向かってくる督姫の、どこか五郎にも似た無邪気な笑顔。
……愛しさを感じるたびに深い罪悪感に苛まれ、振り払うように北条のところへ嫁にやってしまった。
無理やり「家康の娘」という役割を背負わされ、北条という敵地へ投げ込まれた督姫。
「あの子にも、同じ思いをさせてしまっているのか」
それは、数正という脚本家に人生を奪われ、戦国の荒野に放り出された五郎自身の、鏡合わせの姿であった。
督姫を救い出すことは、五郎にとって、踏みにじられた自分自身の人生を、せめてひとかけらだけでも「無傷」で取り戻すための、最後の、そして唯一の抵抗であった。
お愛を失ったことで、五郎の中から「慈悲」という潤いが消え失せていた。
今の五郎を動かしているのは、天下のためという大義ではない。ただ、兄から預かった「徳川」という舞台を、完璧に演じ終えねばならぬという、執念に近い義務感であった。
「平八郎。……北条の首は要らぬ。氏直の命を助けよ。督姫を連れ戻せ」
五郎の声は低く、地を這うような不気味な響きを帯びていた。
傍らに控える本多忠勝は、その瞳を見て息を呑んだ。
忠勝は密かに五郎の正体を知る「共犯者」であり、数多の地獄を見てきた最強の武人だ。だが、今の五郎が放つ、漆黒の空洞のような情念には、言葉を失うしかなかった。
(この御方は、本物の殿(家康)をも、自分自身の魂をも、すべてを喰らい尽くして空虚な『神』になろうとしておいでだ。正気ではない。生きたまま地獄を歩いている。)
そこに宿っていたのは、主臣としての威厳ではない。
最愛の者を失い、心に巨大な穴が開いた男が、その穴を埋めるために「自分自身(督姫)」を死守せんとする、絶望的なまでの執着であった。
「……御意。必ずや、姫様を無傷でお連れ戻しいたします」
忠勝は、何かに弾かれたように深く頭を下げ、陣幕を飛び出していった。
小田原の陥落。
五郎の執拗な助命嘆願により、北条氏直は命を繋いだ。
救い出された督姫が、父の元へ戻ってくる。
五郎は、遠くからその無事を確認した。
泥に汚れ、怯えた様子の娘。
だが、五郎は一歩も近づかなかった。彼女を抱きしめることもしなかった。
もし、今、あの子の肩に触れれば。
その温もりに触れてしまえば、自分はあの子を「家康の娘」として、愛さねばならなくなる。
それは、お愛との誓いを、五郎という一人の男の最後の一線を、完全に捨て去ることを意味していた。
「……これで、数正への義理は果たしたぞ。お前の作った『人形』は、まだ壊れてはおらん」
五郎は背を向け、独り、闇の中へと消えていった。
北条を滅ぼした功績により、秀吉は五郎に「江戸への移封」を命じる。
思い出の詰まった駿府を奪われ、五郎はさらなる孤独の極み、関東の荒野へと追いやられることになる。
四十八歳の仮面を被った、四十一歳の五郎は、お愛の遺した香袋を懐深くしまい込み、再び「徳川家康」という名の、何よりも重い鎧を纏って、東へと馬を向けた。
そこには、自分一人の力で描き出す、巨大な嘘の国が待っていた。




