【第十七話:父の失言、影の戦慄 —— 芽生えた不始末】
今回は、お愛様の訃報に耐えられなくなった作者が書いた、コメディ回です。
本編より少し時間が進んでいます。
笑えない不始末…でも、徳川の歴史のためには必要?かもしれません。
江戸城。
徳川家が関東の荒野を切り拓き、新たな城下を築き始めていた頃。
初夏の夜風が吹き抜ける深夜の執務室で、五郎は独り、亡きお愛が遺した白檀の香袋を、縋るように握りしめていた。
数正は去り忠次は隠居し、そして月の光のように優しく五郎の魂を包んでくれたお愛はこの世にいない。彼を「徳川家康」という怪物に繋ぎ止めているのは、指先に残る薬草の苦味と、懐に忍ばせた白檀の残り香、ただそれだけだった。
「……お愛……」
五郎は縋るように香袋を握りしめ、誰にも見せぬ涙を流していた。
その重々しい静寂を、「パーン!」という乾いた音が粉砕した。
襖が、それこそ蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで撥はね飛んだ。
「——殿!! 大変な不始末にございます!!」
入ってきたのは、怒髪天を突く勢いの阿茶局である。 その背後では、元服したばかりの秀忠(長丸)が、まるで小鹿のようにガタガタと震えながら、畳に額を擦りつけていた。
「……あ、阿茶。何事だ。普請の遅れか? それとも秀吉の刺客か?」 五郎は慌てて涙を拭い、威厳ある「家康」の仮面をずれたまま被り直す。
「いえ! 普請ならまだマシにございます! ……この、元服したばかりの若君が! 手近な侍女に手を出し、あろうことか子を宿らせました!!」
「………………は?」
五郎の時が止まった。 手に持っていた大切な香袋が指先から滑り落ち、床を虚しく転がった。
「お相手は、お茶阿という侍女にございます! 秀忠様、何か言い開きは!」
「……も、申し訳ございませぬ……申し訳ございませぬ、父上……ッ!」
秀忠の蚊の鳴くような謝罪。五郎は深い眩暈に襲われた。 つい先ほどまで「孤独な怪物の悲哀」に浸っていた自分の情緒を返してほしい。
五郎はお愛への誓いを、頑なに守り続けていた。彼女が逝った後も、他の女に手を出すなど、彼の脳内辞書には存在しない概念だった。阿茶に対しても、それは変わらなかった。
だが、目の前の長丸は、間違いなく自分とお愛の間に生まれた、最愛の息子だ。
しかし、だからこそ、その息子が元服した瞬間に自分を追い越すような「オイタ」を仕出かしたことが、五郎には理解できなかった。
「……信じられぬ。……なぜだ。なぜそんなことができるのだ。
……私は、お前の母上……お愛しか、知らぬというのに!お愛一人のために、この身を捧げてきたというのに……」
五郎が、呆然と、しかしはっきりと呟いた。
「……ッ!?(——殿!! 何をおっしゃるのです!!)」
阿茶は叫びたい衝動を、血が出るほど唇を噛んで抑え込んだ。
「徳川家康」という男は、公式には何人もの側室を持ち、多くの子を成してきた「英雄」だ。その主君が、実の息子の前で「お愛一人しか知らない」などと口にすることは、自ら「私はあの好色な家康ではない」と告白しているに等しい。
(数正様!! 御覧くださいませ、この清廉すぎる怪物を!! 私一人じゃ守りきれませぬ!!)
阿茶は心の中で、すでに徳川家にいない演出家に向かって絶叫した。
幸いにも、秀忠は己の不始末への恐怖で頭がいっぱいで、父の言葉が持つ致命的な矛盾に気づく余裕などなかった。
「……そうか。そうであったか。……長丸」
五郎は自嘲気味に笑い、壁に掛けられた兄・家康の古い甲冑を見上げた。
(お前は、私に似ず、兄上に似てしまったようだな……。あの方も、それはそれは奔放な方であった……)
自分の中では薬草の香りのように静かに沈殿している「徳川の業」が、息子の中では兄・家康と同じ激しさで花開いてしまった。
「……お前は、間違いなく私の子だ。だが……私に似ず、兄上に似てしまったようだな。私よりも、よほど『徳川の主』らしい血の強さではないか」
五郎は、亡き兄・家康の奔放さを思い出し、やるせなさを込めてそう言った。
膝をつく秀忠の背筋に、別の震えが走った。
(……父上は、亡き信康兄上のことを仰っているのだ。あの、誰もが恐れたという、本物の徳川の血を引く兄上の激しさを、私の中に見ておられるのか……!)
自分の過ちを棚に上げ、勝手に「父に認められた」と勘違いして、どこか誇らしげに顔を伏せる秀忠。
阿茶だけは、その言葉が指す「兄上」が信康ではなく、五郎の実兄——本物の家康であることを察し、遠い目をして天を仰いだ。
「……阿茶。この件、私が引き受ける」
五郎は、震える膝を叩いて立ち上がった。その瞳には、再び冷徹な「怪物」の仮面が(今度はしっかり)張り付いている。
「超丸が元服早々父になったと秀吉に知れれば、徳川の弱みとなる。……この子は、私の不徳の結果として処理せよ。『家康がまた、若い女に手を出した』とでも吹聴しておけば、世間は納得する。……私はもともと、そういう男なのだからな」
「……はっ。……承知いたしました」
阿茶は、絞り出すように答えた。五郎は懐に入れ直したお愛の香袋を、着物の上から強く握りしめた。
(お愛……。見てくれ。お前の息子は、私とは違う。……あの子は、嘘をつかずとも、本物の『徳川家康の息子』として育っていくようだ。……私は、また一つ、お前に顔向けできぬ嘘を重ねるぞ)
「秀忠、下がれ。……産まれてくる子は、人目につかぬよう手厚く保護せよ。」
秀忠が去った後、阿茶は暗い部屋で、一人戦慄していた。
(……危うい。あまりに危うい。数正様がいなくなってから、殿の潔癖さを覆い隠す手配が疎かになっていた)
阿茶は冷え切った自らの手を見つめた。
石川数正という演出家がいた頃は、徳川家康の「絶倫」という看板は、精密に偽造されていた。だが五郎のあまりに潔癖な本質は、気づかぬうちに「徳川家康」という仮面を内側から腐食させていたのだ。
(殿はお愛様以外を抱くことはありますまい。ならば、私が舞台を整えねば。……早速架空の側室を十人ほど増やして、夜な夜な通っている風を装わなければ、天下の目は誤魔化せぬ)
だが、阿茶のその懸念をよそに、皮肉な運命が動き出す。
この日を境に、秀忠は、まるで父の「欠落」を埋めるかのように不始末を繰り返していくことになる。
(……皮肉なものだ。息子が犯した過ちが、父の『偽りの虚像』を補強する盾になるとは)
阿茶は、秀忠の子の出生記録を、家康の子として墨で書き換えた。
徳川の系図に、また一つ、真実を塗り潰した「嘘」が書き加えられた。




