【幕間・下:遺された祝言、白檀の香袋 —— 浜松、嘘と情愛の原点】
元亀三年、三方ヶ原へ向かう直前の冬。
浜松別邸の私室に、家康はお愛を呼び出していた。
お愛は、戦で父を失った武家の娘であったが、その凛とした佇まいと教養の深さは、周囲の侍女たちの中でも一際輝いていた。
「お愛。次の戦(三方ヶ原)から戻った暁には、お前を本多忠真の養女とする。……そして、五郎の『正室』になれ」
突然の沙汰に、お愛は息を呑んだ。
家康は、懐妊したお万の処遇を曖昧にしたまま不確かな関係を続けていることに、密かに自責の念を抱いていた。
だからこそ、孤独に育った弟・五郎には、一点の曇りもない幸せを用意したかったのである。
「あやつには後ろ盾が必要だ。忠真を舅とし、お前を正室に据えれば、五郎は堂々と日向を歩める」
それは、兄としての盲目的な愛であり、徳川の主としての冷静な計算でもあった。一方、五郎には核心を伏せ、「この戦が終われば、お愛を嫁にせよ。私が許す」とだけ伝えた。五郎は、兄が用意した「正室」という輝かしい未来を知らぬまま、ただ愛する女を娶れる喜びに、秘かに胸を熱くしていた。
しかし、運命はあまりに早く、非情であった。
三方ヶ原で兄・家康が果てた。
五郎が「徳川家康」という仮面を被った瞬間、兄が描いた「五郎とお愛の祝言」という夢は、徳川を救うための「最大の禁忌」へと反転した。
この時の数正にとって、五郎はまだ「守るべき主君」ではなく、徳川という器を維持するための「便利な身代わり」に過ぎなかった。
酒井忠次と数正の判断は、冷酷を極めた。
「嘘を知る者は、一人として生かしておけぬ」
別邸の暗がりで、数正はお愛と対峙した。抜身の刀が、冬の月光を弾いて冷たく光る。
「……数正様。お役目、ご苦労様にございます」
お愛は逃げなかった。
武家の娘らしく潔く、数正の刃を静かに受け入れようとした。その瞳には、恨みではなく、愛する男が生き残ったことへの深い安堵だけが宿っていた。
お愛は、懐から小さな香袋を取り出し、数正に差し出した。本来なら、五郎と日向を歩むはずだった祝言の日のために、彼女が夜な夜な調合していた白檀の香袋である。
「これを、五郎様にお渡しください。私がそばにいなくとも、この白檀の香りが、あの方の孤独を浄化して差し上げますように……」
数正は、その香袋をひったくるように受け取った。
お愛を斬る。それが徳川の正義だ。そう自分に言い聞かせながら、振り上げた刃が止まる。
お愛は静かに目を閉じ、最期の願いを込めて一首の和歌を口ずさんだ。
あかつきの 空にしづめる 月影の
山の端隠れて 君を照らさむ
(夜明けの空に沈んでいく月の光のように、私は姿を消しましょう。山の向こうへ隠れても、影となった貴方を照らし続けましょう)
数正の喉が、微かに鳴った。
この女は、五郎が「影」として生きる道を選んだことを悟り、自らもまた「影を照らす月」として消える覚悟を決めている。自分たち「嘘つき」をも包み込むような、慈悲深い微笑み。
(この女を殺せば、五郎殿という器の中から「心」が完全に死んでしまう……)
「…………っ!」
数正は、刀を鞘に叩き込んだ。
「……行け。お前の命、わしが預かる」
数正は、死んだことにされたお愛を、五郎がかつて育ったあの山寺へと連れ去った。
「ここで、まことの殿(兄)の墓守として生きよ」と。
城に戻った数正は、主君の「器」となった男の前に立った。
「別邸の始末、すべて終えました。お万殿は左衛門尉(酒井忠次)の手により、すでに城外へ。……そして、残る一人。貴方様が『五郎』であったことを知る、最後の女も」
数正は無言で、布包みを差し出した。
中から現れたのは、お愛が大切にしていた匂い袋。五郎が、彼女との逢瀬のたびに嗅いでいた、清らかな白檀の香りだ。
「……数正、なぜそれをお前が持っている。お愛はどうした。まさか、逃がすのが遅れたのか?」
五郎が手を伸ばそうとした時、数正が冷徹な声を放った。
「始末いたしました。……侍女たちと共に、三方ヶ原の混乱に乗じて」
「……なっ!?」
「殿。貴方様を『家康』にするためには、かつての五郎様を知る者は、この世に一人として残してはならぬのです。情は徳川を滅ぼす毒。……あの方は、私がこの手で葬りました」
数正の声は冷ややかであった。お愛を生かしたことは、五郎への情ではなく、あくまで「いつか使うための手札」であると、自分自身に言い訳をしていた。
五郎の時が止まった。
数正の胸ぐらを掴み上げようとしたが、指先に力が入らない。
目の前が真っ暗になり、心臓の音が耳元で爆発するように響いた。
「ああああ……あああああああッ!!」
五郎は匂い袋を奪い取り、顔を埋めて絶叫した。
兄を失い、名前を失い、そしてたった一人、自分の正体を知った上で愛してくれた女性さえも、自分の「嘘」を守るために奪われた。
数正は、泣き崩れる五郎を、ただ冷徹な瞳で見下ろしていた。
彼が「五郎ラブ」になり、この男のためなら命さえ惜しくないと心から思うようになるのは、まだ、ずっと先の話である。
だが、その香袋だけは、五郎の気づかないうちに絶望を静かに吸い取っていく。
こうして、一つの香袋が、五郎の四十余年にわたる「嘘の旅路」の、たった一つの道標となった。
※本作は史実を基にしたフィクションであり、独自の解釈と演出を加えております。 作中に登場する古文書や、登場人物が詠む一部の和歌は、本作独自の創作です。 また、歴史上の言葉や伝承についても、物語のテーマに沿った独自の解釈を施している箇所がございます。通説とは異なる「もう一つの徳川記」としてお楽しみください。




