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『弟』〜家康は三方ヶ原で亡くなっていた。石川数正が仕掛けた徳川最大の虚構〜  作者: 滝丸
第二部:『影の変貌編』

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【幕間・中:元康の祈り —— 灰色の庭に咲いた蕾】

元亀三年(一五七二年)、秋。

三方ヶ原の戦記に血が流れる、わずか三月みつきほど前のことである。


五郎と兄 —— 三方ヶ原で散った本物の家康 —— が暮らす浜松の別邸の庭には、嵐の前触れとも思えぬ穏やかな陽光が降り注いでいた。

五郎は、庭の片隅で、泥にまみれて薬草の芽を摘んでいた。その少し離れた廊下では、兄・家康が、一人の侍女を呼び止めていた。


「……お愛。お前のような美しき者が、いつまでも侍女のままでいるのは勿体ない。どうだ、わしの側室にならぬか」

家康は、結城秀康の母となるお万に飽き足らず、その視線はお愛へと注がれていた。

「お前は武家の娘といえど身寄りもなく、天涯孤独の身。この乱世、女独りで生きていくのは酷なことだ。わしの側になれば、一生食うに困らぬ暮らしを約束しよう。どうだ、悪い話ではなかろう?」


家康の言葉は、単なる好色だけではなく、彼なりの慈悲を含んでいた。だが、お愛は困ったように微笑むと、静かに、しかしきっぱりと首を振った。

「……殿。お心遣いは痛み入りますが、私には、既にお慕いしている方がおります」

「ほう、わしを差し置いて誰だ。家中随一の猛者か? それとも知恵者か?」

家康が面白そうに身を乗り出すと、お愛は庭の片隅で一心不乱に土をいじる影——五郎を見つめ、凛とした声で答えた。

「……貴方様が、この世で最も大切になさっている御方にございます」


お愛が去った後、家康は呆然と立ち尽くしていた。

「……あやつか。あんな、薬草の匂いしかせぬ地味な弟か」

家康はその後、密かに二人を観察した。

五郎が薬草の効能を熱心に語り、お愛がそれを愛おしそうに聞き入る。

手も触れ合わぬ清廉な空気。

五郎がお愛に向ける目は、家康と過ごしている時よりも、ずっと優しく、瑞々しい光を湛えていた。


「……あっぶねぇ! わしとしたことが、あやうく弟の大切なつぼみを奪い取るところだったわ」

家康は苦笑し、同時に胸を撫で下ろした。

女好きで奔放な自分とは正反対の、あまりに不器用で真っ直ぐな五郎の恋。

家康は、五郎が自分の「影」としてではなく、一人の男として幸せを掴むことを願った。寺から連れ出してしまった弟への、彼なりの贖罪でもあった。



浜松城の一室。深夜の静寂の中、家康は独り、行灯の火の下で筆を走らせていた。

呼び出しに応じ、音もなく部屋に入ってきた石川数正に、家康は顔を上げずに問いかけた。

「数正。忠真が、次に五郎の剣の指南に来るのはいつであったか」

「……三日後、午後の刻にございます」

「そうか。稽古が終わったら、わしの部屋へ来るように伝えよ。……あやつに、頼みたい『義理』ができてな」


家康はそこで初めて筆を置き、数正を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、一国の主としての冷徹さと、一人の兄としての痛切な祈りが混ざり合っていた。

「数正、そなたに頼みがある。五郎を日陰から出し、一城の主として迎え入れる準備をせよ。……半蔵の調べでは、武田はすでに動いている。恐らく、遠からずこの浜松を血の風が吹き抜けるだろう。……これを(三方ヶ原を)越えたら、あやつを日の当たる場所へ出す」


家康は再び筆を執り、手元に用意していた白紙に、迷いのない筆致で二文字を記した。


『 元 康 』


「……かつて、わしが名乗っていた名だ。今では捨てた名だが、わしにとっては徳川の男としての始まりの名でもある」

家康は墨の乾かぬ紙を見つめ、声を低めた。

「数正。もし、わしに万一のことがあれば……この名を五郎に渡せ。そして伝えよ。影ではなく、一人の徳川の人間として、お前の道を行けとな」


それは遺言にも似た、あまりに重い親心であった。

家康の指先が微かに震えているのを、数正は見逃さなかった。影武者として育てた弟を、本当は誰よりも「自由な一人の男」として愛していた主君の慟哭が、その二文字に凝縮されていた。

数正は言葉を失い、畳に額を擦り付けるようにして、深く、深く頭を下げた。

「……御意。この数正、命に代えましても」

行灯の火が小さく爆ぜた。



地響きのように遠くで武田の足音が聞こえる、嵐の前の静寂。

家康は盃を掲げ、自分と同じ顔をした男を見つめていた。影武者という過酷な運命を押し付けてしまった弟。せめて今夜だけは、一人の兄として言葉をかけたいと願った。


「……五郎。お前、お愛のことが好きなのだろう?」

五郎の動揺は、かつて山寺で初めて対面した頃と少しも変わらない。その青臭い戸惑いが、家康には愛おしくてならなかった。

「……そ、そのような、滅相もございませぬ。私のような影が……」


「影」という言葉に、家康の胸がちくりと痛む。お前を影に押し込めたのは私だ。だからこそ、その影の中に灯った小さな火だけは、消させたくない。

「隠さずとも良い。お愛の前で見せるお前の目は、私に向ける目よりもずっと優しい。……安心しろ、お愛も悪い気はしていないようだ」


家康は弟の肩を叩き、慈しむような目で続けた。もし、この戦を生き延びることができたなら。いや、何としても生き延びさせ、お前に「お前の人生」を返してやりたい。

「……いずれ、お前に正式な名を授けようと思っている。徳川の連枝として、堂々と日の本を歩める名をだ。その名をもらったら、お愛を妻にしろ。私が許す」


正式な名があれば、お前はもう誰かの影ではない。お愛と共に、光の下を歩めるのだ——。家康の言葉は、弟への精一杯の謝罪であり、祈りでもあった。

自分を「弟」として愛してくれた兄の、何も言わぬ応援。五郎の胸に、言葉にできない感謝が溢れた。

その瞳の輝きを、家康は眩しそうに見つめ返した。この約束が、後に五郎を一生縛り付けるかせになるとは、今の家康には知る由もなかった。



浜松別邸の夜は、どこまでも澄み渡っていた。

月光が濡れ縁を銀色に染め、庭の木々が黒い影を落としている。お愛は、隣に座る五郎の横顔を、盗み見ることもできずに俯いていた。

彼女の胸の奥では、あの薬草を貰った日からずっと、激しい恋慕の火が燃え続けている。武家の娘としての冷静な仮面の下で、魂は今も「救われた」という熱い衝撃に震えていた。ふわりと、自分の纏う白檀の香りが夜風に揺れる。この香りが、五郎の孤独を少しでも和らげているだろうか。


「……お愛」

五郎の声がした。お愛は指先をぎゅっと握りしめ、顔を上げずに応えた。

「はい」

その一言を絞り出すだけで、喉の奥が熱くなる。

五郎が、静かに、けれど決意を込めて口を開いた。


「……お愛。近いうちに、私は兄上から名を頂くことになった。……名をもらったら、私の妻になってくれないか」

その瞬間、お愛の視界が、再びあの日のように鮮やかな色彩に溢れた。「妻に」という言葉が、彼女の耳の奥で、魂の底で、幾重にも反響する。

名前を失った幽霊。影として生きることを強いられた男。そのお方が、自らの名を得て、自分を隣に望んでくれた。

かつて「名前など器に過ぎません」と言い切ったけれど、彼が自分の「名」を持つことは、お愛にとって彼が一人の人間として、一人の男として生き直す、何よりの証に思えた。


お愛は、言葉が出なかった。ただ、燃えるように熱くなった頬を隠すように深く俯き、溢れ出しそうな熱情をすべて込めて、静かに、けれど力強く頷いた。


これこそが、五郎の人生で最も幸せな、唯一の記憶。

五郎の目に映るお愛は、ただ慎ましく、幸せそうに微笑む、凛とした武家の娘であった。



侍女部屋に戻ったお愛は、静かに襖を閉め、闇の中に崩れ落ちた。


「……っ……」

声を殺し、口元を袖で押さえる。

あの日、灰色の世界で色彩をくれた、あの泥だらけの手。

「偽物だからな」と自嘲した、あの寂しげな瞳。そのお方が、自分を「妻」と呼んでくれた。

自分を、没落した家の娘でもなく、徳川の駒でもなく、ただの「お愛」という一人の女として、必要としてくれた。


「……五郎、様……」

止めていた涙が、溢れ出して止まらない。

それは、悲しみでも、単なる喜びでもなかった。自分の壊れていた魂が、彼の言葉によって、ようやく完全に一つの形になったのだという、震えるような「救済の涙」であった。

お愛は、月明かりが差し込む畳の上で、何度も、何度も、彼の名を心の中で唱えた。たとえこの先の運命がどれほど過酷であろうとも。この夜、彼が私を「本物の女」にしてくれた。その事実だけで、私は一生、この人の影を照らす光になれる。

白檀の香りが、涙に濡れた袖から静かに立ち上っていた。



三月みつき後。

三方ヶ原で散った兄が遺した『元康』の名は、皮肉にも『家康』という檻へと姿を変え、五郎を再び影の中へと閉じ込めることになる。

だが、あの月夜の約束だけは、お愛が逝くその日まで、二人の魂を繋ぎ止める真実の絆となったのである。

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