【第十五話: 宿老の退場、継承される『影』】
天正十六年(一五八八年)、十月。駿府。
徳川家康——五郎は、一つの大きな時代の終わりを迎えようとしていた。徳川最古参の宿老であり、政務のすべてを「家康公の意志」として整えてきた酒井左衛門尉忠次の引退である。
世間から見れば、徳川の主は四十六歳という円熟の時。だが、その肌の下に隠された五郎の実年齢は、まだ三十九。父・広忠が急逝した折、母の胎内にいた名もなき赤子が、兄の皮を被って二十年近くを死に物狂いで生き抜いてきたのである。
「……殿。これよりは、京都にて隠居の身となりまする」
目の前に平伏する忠次は、かつての「海老すくい」の陽気さは影を潜め、背は小さく丸まっていた。
「左衛門尉。……お前まで、私を独りにするのか」
五郎の声には、主君としての威厳を超えた、親を失う子供のような寂寥が混じった。数正が「家康」としての振る舞いを叩き込む師であったなら、忠次は五郎が下すあらゆる決断に政務上の理屈を付け、矛盾を揉み消してきた、実務における育ての親であった。
「案じ召さるな。今の徳川の政は、誰がどこを突こうとも『家康公の御意志』として通るよう、この忠次が隅々まで整えておきました。……貴殿は、ただそこに座しておられれば良い。もはや、私の導きなど不要にございます」
忠次は皺だらけの掌を、五郎の手に重ねた。
「……貴殿を『五郎』と知る者が消えることは、徳川の嘘が真実の岩盤へと変わるということでございます。寂しがることはございませぬ。私たちは皆、貴殿という『最高傑作』の中に生き続けておりますれば」
忠次の声は、もはや主君への言葉ではなく、自慢の息子を送り出す父のようであった。五郎は、この忠臣が自分の正体を知りながら、あえて泥を被り続けてくれた恩情に、ただ黙って頭を下げるしかなかった。
忠次が城を去る前夜。彼は、一人の男を私室に呼び出していた。
本多平八郎忠勝。
忠勝は、三方ヶ原の直後、あまりに鋭い武人の洞察力で、主君の魂が入れ替わったことを見抜いた唯一の男である。忠次を力ずくで問い詰め、真実を暴いたあの日。だが彼は、五郎が「兄上の遺志を継ぎ、地獄を歩く」と語った覚悟に己の命を預けると決めた。
以来、忠勝は「五郎が、自分(忠勝)は正体を知られていないと思い込んでいる」という状況すらも守り抜き、ただの忠実な猛将を演じ続けてきた。
「……平八。これを、お前に継がせねばならぬ」
忠次が差し出したのは、一帖の和綴じの本。石川数正の筆跡で記された、徳川最大の機密。
『影向之次第』
「……数正の書ですか」
忠勝は、吐き捨てるように言った。自分たちを置いて豊臣へ走った男の名を呼ぶ声には、まだ割り切れぬ怒りが混じっていた。
「数正が『外の顔』を、私が『内の政』を支えてきた。だが、我ら親世代はもう去る。これからは、お前が殿の『魂』を守る金剛の盾となれ。これは、殿を神に仕立て上げるための、地獄の『次第』だ」
忠勝は訝しみながら、震える手でその中身を捲った。そこには家康としての些細な所作から、将来起こりうる事象への「対策」が網羅されていた。そして、最後の一節に目が止まった瞬間、忠勝の呼吸が止まった。
『——これよりの仕上げ。殿を不動の主とし、旧来の徳川の影を断つため、拙者が豊臣へ走り、不義理の罪をすべて背負う。これをもって、影向の完遂とす』
「……ッ!」
忠勝の全身を、雷に打たれたような戦慄が駆け抜けた。数正のあの出奔すらも、五郎を完璧な主君として孤立させ、完成させるための「最終演出」であったのだ。
「……数正殿。貴方は……ここまで……」
忠勝は、数正の執念が詰まったその本を胸に抱き、月明かりの下で独り、慟哭にも似た誓いを立てた。
「平八、殿は、お前が真実を知っているとは夢にも思っておられぬ。……その『知らぬ顔』を、死ぬまで貫け。殿が、誰にも頼らず独りで立っておられると信じさせて差し上げろ。それが、生き残った我らの最後の奉公だ」
翌朝。忠次は僅かな供を連れ、静かに駿府を離れた。
五郎は城壁の上から、忠次の背中を見送っていた。
(……これで、本当の私を知る忠臣はいなくなったのか。……数正)
五郎は、背後に控える忠勝が、どのような真実を懐に抱いているかも知らず、ただ「一途な忠臣」としての彼に守られていることに、微かな安らぎを感じていた。
自分を知る最後の「親」が去った今、五郎はこの身を完全に「家康」という名の怪物に捧げる覚悟を決めた。
「……行くぞ、平八郎」
五郎の掠れた声に、忠勝は背後で無言の一礼を返した。その瞳には、五郎さえも知らぬ、凄絶な「共犯者」の光が宿っていた。




