【第十六話:白檀の残り火 —— 影を継ぐ者、盾となる者】
天正十七年(一五八九年)、五月。駿府。
初夏の風が城内を吹き抜けるが、お愛の寝所には、重く、甘い白檀の香りが立ち込めていた。その香りは、彼女の命の灯火が消えかけていることを、残酷なほど美しく告げている。
「……阿茶様。お耳を、近くへ」
お愛の細く震える声に、阿茶局は静かに歩み寄った。
阿茶は、五郎が最も信頼し、政務のパートナーとして側に置いてきた才女である。だが、彼女にはまだ、お愛だけが握り締めている「最後の真実」を明かしていなかった。
「……殿は……。今、貴女様がお仕えしているあの方は……家康公では、ございませぬ」
阿茶の身体が、一瞬、凍りついたように動かなくなった。お愛は構わず、喘ぐような息の下で言葉を紡ぎ出す。
「あの方は、三方ヶ原で亡くなった殿の弟君……五郎様にございます。……名を奪われ、自分を殺し、ただ徳川のために『怪物』を演じ続けておられる、悲しい御方なのです」
阿茶の瞳が大きく見開かれる。これまでの「家康」の不自然なまでの生真面目さ、その裏に潜む深い孤独の正体が、氷解するように阿茶の胸に落ちた。
「阿茶様。あの方は、独りで震えておいでになります。……私が逝けば、あの方を『五郎様』と呼べる者は、この世から消えてしまう。……どうか、あの方の影を、共に背負ってあげてくださいませ」
お愛は、枕元に置いてあった香袋を、阿茶の手にそっと握らせた。阿茶は、握らされた香袋の重みを噛み締めるように、深く、深く頭を垂れた。
「……お愛様。ご安心なされ。この阿茶、これよりは徳川の側室にあらず。五郎殿の『共犯者』として、この秘密、墓場までお供いたします」
その誓いを聞き、お愛は安堵したように、遠く霞む空を見つめた。
深夜。城内の喧騒が消え、お愛の部屋には五郎と彼女の二人だけが残された。
五郎は、家臣たちの前で見せていた「主君」の顔を、襖を閉めた瞬間に剥ぎ取った。
「……お愛。行かないでくれ。お前がいなくなれば、私は誰のために家康を演じればよいのだ」
五郎はお愛の膝元に崩れ落ち、その温かな手に顔を埋めた。声を殺して泣くその姿は、天下を動かす名将などではない。かつてあの別邸で、一人の女に恋をした、あの日の名もなき青年「五郎」そのものであった。
お愛は、残された最後の力を振り絞り、五郎の乱れた髪を優しく撫でた。
「五郎様。……お会いしたあの日から、私はずっと……貴方様だけを愛しておりました。……貴方がついた嘘は、もう、何万という民を救う『真実』にございます。……私は幸せでした。五郎様の妻として……徳川の、母になれたのですから」
「お愛……!」
「……泣かないで。白檀の香りがする時、私はいつも、貴方の隣に……」
お愛の手から、力が抜ける。五郎がどれほどその手を握りしめても、温もりは夜の静寂へと溶けていった。
天正十七年五月十九日。五郎の「心」を繋ぎ止めていた、最後の一本の糸が、静かに断ち切られた。
お愛が息を引き取った直後。 五郎は、ふらつく足取りで独り縁側へ出た。夜風は冷たく、月は無情なほどに明るく庭を照らしている。
二十年分にも届こうとする孤独、兄の身代わりとして瀬名や信康を殺した業、そして唯一の理解者を失い、自分自身を見失う絶望。それらが濁流となって溢れ出し、五郎を飲み込んでいった。
「……う、あああああ……ッ!!」
膝を突き、床に額を叩きつける。喉から漏れるのは、天下人としての気品など微塵もない、獣のような呻きであった。
その背後に、物音も立てず、一本の巨木のような影が立った。 本多平八郎忠勝である。 忠勝は、五郎に声をかけることはしなかった。近づいて背をさすることもしなかった。ただ、五郎から数歩離れた場所に、庭へ——つまり、外敵や他人の視線が届く方向へ——背を向けて仁王立ちになった。
蜻蛉切を傍らに突き立て、月明かりの中で彫像のように佇むその背中は、「ここから先は、地獄の番人である俺が誰一人通さぬ」と無言で叫んでいた。
五郎は、背後に忠勝がいることに気づいた。咄嗟に嗚咽を飲み込み、仮面を被り直そうと肩を強張らせる。 だが、忠勝は背を向けたまま、地を這うような低い声で呟いた。
「……今宵の風は、余りにも強く、私の耳には風の音以外、何も聞こえませぬ。ましてや、この背の向こうにどなたがおられるのか……不器用なこの平八郎には、分かり申さぬ」
その言葉は、五郎にとってこの世で最も温かな許しであった。 (……そうか。お前は、私を『家康』として守るのではない。私が『一人の男』として泣き叫ぶための場所を守ってくれているのか)
せき止めていたものが、決壊した。
「……ああああああ!! お愛……お愛っ!!」
五郎は、忠勝の背中を信じ、剥き出しの魂で慟哭した。 床を拳で叩き、涙と鼻水で顔を汚し、一人の情けない男として、愛する者を失った悲しみをすべて吐き出した。忠勝という強固な盾があるからこそ、彼は十七年ぶりに、本当の意味で「五郎」に戻ることができたのだ。
忠勝は、主君の無様な叫びを背中に受けながら、微動だにせず闇を睨み据えていた。その握りしめた拳は白く震え、主の悲しみを共に背負うかのように固く閉じられていた。
どれほどの時間が流れただろうか。 やがて、五郎の喉は枯れ、涙の在庫はすべて尽き果てた。 夜風が涙を乾かし、内側にあった熱情がすべて空っぽになった時、五郎はゆっくりと立ち上がった。
振り返ったその顔には、既に感情の一片も残っていない。 かつてお愛が見つけ出した「五郎」の光は消え去り、そこには、数正の望んだ通りの、冷たく、底知れぬ闇を湛えた「怪物・徳川家康」の貌が完成していた。
「……すまぬ、平八郎。……見苦しいところを見せた」
「……滅相もございませぬ。風が強うございますな、殿」
忠勝は、五郎の顔を見ることなく、ただ短く返した。 五郎は、忠勝の横を通り過ぎる際、その強固な盾の肩に、一瞬だけ、誰にも悟られぬほどの軽さで手を置いた。
それは、「五郎」としての、最後の感謝の印であった。 忠勝は一礼して影のようにその後に続いた。
お愛の葬儀から数日が過ぎた。駿府城の奥、五郎は一人、闇の中に座していた。
そこへ、服部半蔵が降り立ち、信濃の石川数正からの口伝を囁いた。
「……数正殿より。……『五郎殿。お愛様のことは聞き及んだ。悲しむ時間は、一刻で十分。貴方が止まれば、死んだ兄上も、お愛様も、ただの犬死にとなる。貴方は、そのまま怪物であれ。貴方の業、私が地獄まで供に背負う』」
五郎は、暗闇の中で静かに微笑んだ。
(……そうか。数正、お前は相変わらず……憎らしいほどに、私の主君だな)
五郎は立ち上がる。お愛の香りは消えた。だが、その代わりに、数正という消えない呪い、そして忠勝という「自分を家康だと信じているはずの」無言の盾が、五郎を天下という地獄の頂点へと押し上げていく。
その瞳には、もはや迷いはなかった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
明日はお愛様ロスになっている作者が「幕間」といたしまして前日譚を執筆しましたので掲載させていただきます。ぜひお読み下さい。




