【第十四話:官僚の眼、僧侶の指】
天正十四年(一五八六年)、大坂城。
徳川家康が羽柴秀吉に臣従を誓い、上洛した折のことである。
詰め所に山積みされた書状の奥から、鋭く、一切の情を排した声が響いた。
「——加藤(清正)殿。此度の普請、貴殿が主張する『士気』なるものは、私の帳面には記載されておりませぬ。石材の運搬効率が三割落ちている。原因は精神論ではなく、貴殿の配下の差配の不手際なり。差図を引き直し、明日までにやり直されよ」
石田治部少輔三成は、相手が秀吉の子飼いの猛将であろうと、眉一つ動かさずに突き放した。清正は顔を真っ赤にし、腰の刀を鳴らさんばかりに三成を睨みつけた。
「貴様……! 武士の働きを算盤の玉のように弾きおって! 理屈で城が建つかッ!」
殺気立つ室内。だが、三成は筆を置くことさえせず、淡々と答えた。
「理屈で建たぬ城など、最初の地震で崩れます。……次の方、お入りを」
そのやり取りを、入り口で静かに見守っていた男がいた。
徳川家康——その皮を被った「五郎」である。五郎は、周囲の者が蛇を嫌うように三成を避けて通る中、一人で微かに苦笑した。
(……あんな言い方では、味方を失い、一生損をする。だが、あやつが口にしていることは、一点の曇りもない正論だ。……毒をそのまま吐き出す、あまりに不器用な男よ)
清正が吐き捨てるように去った後、五郎が室内へ進むと、三成は顔を上げぬまま、乾いた声で切り出した。
「徳川殿。此度の臣従に際し、石川数正殿から渡された領地の石高、並びに軍役の帳面……どうにも、計算が合いませぬ。私には、この数字が、中身のない『血の通わぬ抜け殻』のように見えます。徳川は、何かを隠しておられるのではないか?」
三成はそこで初めて顔を上げた。その瞳は、情念や野心を削ぎ落とした、冷徹な理の塊であった。五郎は「徳川家康」として、腹の底を見せぬよう鷹揚に笑ってみせた。
「……治部殿。些細な数字の揺れなど、大勢には関わりあるまい。数正が去った後の混乱ゆえ、帳尻の合わぬこともあろう。大目に見ていただきたいものだ」
「数字に妥協は許されませぬ。一の狂いが、万の民を飢えさせる。……私は、淀みのない『理』でこの国を統べたいと考えているのです」
三成は再び筆を走らせたが、五郎はその青白い顔色と、時折胃の辺りを押さえる三成の仕草を見逃さなかった。
「……治部殿。貴殿、胃の腑を病んでいるな。気が立ちすぎている」
三成の筆が、一瞬止まった。
「……何のご冗談を。私は至って壮健にございます」
「嘘を申せ。貴殿のその呼吸の浅さ、そして指先の微かな震え。……それは、長年の心労と食の不摂生が畳み掛けた、内臓の悲鳴だ」
五郎は、無意識に「僧侶」としての顔に戻っていた。彼は三成の机に歩み寄り、その細い手首を掴んだ。三成は驚き、振り払おうとしたが、五郎の指先が脈を押さえる絶妙な力加減に、思わず言葉を失った。
その至近距離で、三成の鼻腔を突いたのは、硝煙でも馬の汗でもない。
戦を業とする者が帯びるはずのない、深く、静かに沈殿した白檀の残り香であった。
それは、特定の女人と肌を接し、その体温を分かち合っている者だけが纏う、生々しくも清浄な「生活」の匂い。天下を争う大坂城の殺伐とした空気の中で、その香りはあまりに異質で、まるでここではないどこかに「完成された安らぎ」を隠し持っているかのようだった。
三成は、五郎の親指の付け根に触れた。そこにあるのは、太刀でできたタコではない。薬草をすり潰す「薬研」を長年回し続けた者だけが持つ、独特の硬いタコであった。
「……黄連と甘草を煎じて飲むがいい。それから、夜は冷たい水を控え、白湯を。……さもなくば、泰平の世を見る前に貴殿の命が尽くるぞ」
五郎の眼差しは、主君が臣下に送る慈悲ではなく、医僧が病人に送る、底知れぬほど深く静かな慈しみであった。五郎はそれだけ言うと、満足げに、そして軽やかに部屋を去った。
残された三成は、自分の手首に残った五郎の温もりと、漂う白檀の香りを反芻していた。
(……徳川家康。いや、何かが違う。あの指先、あの眼差し、そしてあの香り……。あれは、権力に飢えた獅子のそれではない。……この男、この乱世の真っ只中にあって、何にこれほどまで『満たされて』いるのだ)
三成は手元の算盤を弾いた。パチ、パチ、と虚しく響く音。
「……計算が、合わぬ。欲望の果てに天下を狙う男の体から、これほど澄んだ『情』が溢れ出すはずがないのだ」
石田三成という「探偵」が、徳川家康という「最大の嘘」の綻びを、初めてその指先に捉えた瞬間であった。二人の出会いは、友情よりも先に、一人の知的な探求者による、震えるほどの「疑惑」から始まったのである。




