【第十三話:黄金の檻、無言の盟約】
天正十四年、十月。徳川家康、上洛。
大坂へ向かう道中、徳川の陣中には重苦しい沈黙と、爆発寸前の憤怒が渦巻いていた。本多平八郎忠勝をはじめとする将たちは、羽柴秀吉に膝を屈することに激しく反発し、主君・五郎に詰め寄った。
「殿! あの猿ごときに、三河武士が頭を下げるなど、あってはなりませぬ! 刺し違えてでも、徳川の面目を見せるべきにございます!」
忠勝の咆哮に、五郎は静かに目を閉じた。かつての「小僧」であれば、その熱き忠義に涙し、共に死ぬ道を選んだかもしれない。だが、今の五郎の傍らには、数正が遺した「地獄の台本」があった。
「平八郎、落ち着け。……もはや、戦える状態ではないのだ」
五郎は、あえて力なく、絞り出すような声で語りかけた。
「石川数正が……あの男が、徳川の軍法、城の構え、兵糧の隠し場所まで、すべてを秀吉に売り払った。内情をすべて剥き出しにされた今、戦をすれば徳川は数日で灰になる。……すべては、数正の裏切りのせいなのだ」
忠勝は唇を噛み切り、床を叩いて号泣した。自らが「不義理な裏切り者」という泥を被ることで、主君に臣従の大義名分を与える。これこそが、数正が命を懸けて築いた「嘘」の真髄であった。
大坂での謁見を翌日に控えた夜。五郎の宿所となった羽柴秀長の邸は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
警護の者をすべて下がらせ、一人で庭を眺めていた五郎の背後に、足音もなく一つの影が滑り込んできた。
「……徳川殿。いや、三河の『家康』殿。夜分に失礼するわい」
その声には、天下を掴みかけた男特有の、ねっとりとした愛嬌と威圧感が同居していた。五郎が振り返ると、そこには豪華な小袖を無造作に羽織った羽柴秀吉が、猿のような笑みを浮かべて立っていた。
「……関白殿下。このような刻限に、忍びの真似事とは」
五郎は数正の教え通り、声を一段低く沈ませ、感情を削ぎ落とした「怪物」の面を被る。
秀吉は五郎の前にどかと座り込み、値踏みするようにその顔を覗き込んだ。
(……三方ヶ原で負けて以来、人が変わったとは聞いておったが。まるで生気が抜けた石仏のようよ。あの数正を追い出したのも、この冷徹さゆえか)
秀吉は内心でほくそ笑んでいた。
自分の調略によって、徳川の屋台骨であった石川数正を引き抜いた。これで徳川の軍法も、城の弱点も、すべては自分の掌中にある。家康は今、丸裸でこの大坂に立っているのだ。
だが、秀吉は決して油断はしていなかった。小牧・長久手で味わった、あの「家康」の異常なまでの戦の強さ。追い詰められた獣が、死に物狂いで牙を剥くことだけは避けねばならない。
「徳川殿、端的に申せば、わしは貴殿を、誰よりも高く買うておる。数正を得た今、徳川を武力で踏み潰すなど造作もないこと。……だが、わしは貴殿を殺したくない。貴殿のような『戦の神』を敵に回して、わしの天下に傷をつけたくはないのよ」
秀吉は、あえて「懇願」の形を取った。それは弱さゆえではなく、相手を最も確実に支配するための演出であった。
「明日の謁見、貴殿がわしに膝を屈する姿を、天下に見せつけねばならん。だが、誇り高き三河武士たちが黙っておるまい。そこでだ……貴殿に一つ、芝居を打ってもらいたい。
明日の謁見の際、貴殿はわしの前でこう請うのだ。『殿下の陣羽織を賜りたい。これこそが、私の身を守る最強の鎧である』とな。わしは喜んでこれを貴殿に着せよう。わしの羽織を着た者を、誰が攻撃できようか? これで、徳川の家臣たちにも『主君は天下人の身内になったのだ』と示しがつく」
秀吉の目は、笑っていなかった。
(こうして公衆の面前でわしに『ねだらせる』ことで、家康、貴様の鼻柱を完全にへし折ってやる。数正を失い、わしの羽織を着せられた貴様は、もう二度とわしに背けぬ影となるのだ)
五郎は、秀吉の瞳の奥にある真っ黒な野心を見つめ返した。
この男は、数正の出奔で自分が勝ったと思い込んでいる。五郎が「偽物」であることなど疑いもせず、ただ「弱った本物」を屈服させる愉悦に浸っている。
(……助かった。この男の『慢心』こそが、数正が遺してくれた最大の勝機だ)
五郎はゆっくりと畳に手をつき、深々と頭を下げた。
「……殿下のご慈悲、痛み入ります。明日は仰せの通りに。すべては、天下の安寧のため」
その謙虚すぎる態度に、秀吉は一瞬、拍子抜けしたような顔を見せたが、すぐに満足げな高笑いを上げた。
「ハハハ! 話が早くて助かるわい。さすがは石川数正を育てた主君よ。では、明日を楽しみに待っておるぞ」
秀吉が闇に消えた後、五郎は激しく波打つ鼓動を抑えるように、胸元のお愛の香袋を握りしめた。
「……見たか、数正。そなたが被った『裏切り者』という泥が、この怪物をこれほどまでに油断させている」
五郎の瞳に、静かな決意の炎が宿っていた。
翌日、大坂城。
秀吉との謁見は、前夜の打ち合わせ通り、完璧な「芝居」として執り行われた。秀吉から陣羽織を授けられた五郎の姿は、天下に徳川の臣従を決定づける象徴となった。
謁見を終え、千畳敷へと続く磨き上げられた長い廊下。
五郎一行の前から、逆方向を歩いてくる一団があった。先頭に立つのは、豊臣の直臣となった石川数正である。
五郎の心臓が、早鐘を打つ。
数正の背筋は相変わらず鉄のように真っ直ぐで、その歩法は、かつて五郎に「家康の歩き方」として叩き込んだもの、そのままであった。
二人の距離が縮まる。
五郎は「怪物・家康」の仮面を必死に張り付かせ、前くだりを見据えた。数正もまた、感情の一切を排した能面の如き顔で、かつての主君を見ようとはしない。
すれ違う、一瞬。
衣の擦れる音だけが響き、二人は一度も目を合わせることなく、互いの背後へと遠ざかった。だが、五郎の鼻腔には、数正が愛用していた古い墨の匂いが微かに掠め、五郎の指先は一瞬、子供のように震えた。
「……」
五郎は足を止めず、ただ前だけを見て歩き続けた。その背中は、誰の目にも「裏切り者を一顧だにしない冷徹な大名」に映ったはずであった。
だが、その背後で。
五郎のすぐ後ろを歩いていた、一人の男がいた。
数年前に帰参してきた不気味な男、本多正信である。彼は手遊び用の紐を指先で弄びながら、五郎にしか聞こえないほどの低い声で呟いた。
「……やれやれ。離れてなお、相変わらずの熱烈ぶりですな」
五郎は雷に打たれたように硬直しかけたが、かろうじて歩みを止めなかった。
「……正信、何を」
「いや何。あの一瞬のすれ違いだけで、これほどまでに『執着』の匂いを振りまく主従も珍しいと思いましてね。数正殿も、あのように突き放しておきながら、殿の歩法を一歩たりとも見逃さぬよう、全神経を背中に集中させておられた。……全く、当てられすぎてこちらの背中まで痛くなってきますわい」
「黙れ。私は、徳川家康だ。奴は、裏切り者だ。……それだけだ」
「くくく。左様でございますな。……であれば、その『徳川家康』としての完璧な背中、もう少しだけ続けてくだされ。今、殿が振り返って泣き出したりすれば、この城の石垣がすべて崩れてしまいますからな」
正信の軽妙な毒が、五郎のこわばった心を、皮肉にも少しだけ解きほぐした。
五郎は懐に触れた。そこには、文箱に入った「ひしゃげた元康の紙」と、お愛の香袋を潜ませてある。
「……行くぞ、正信」
「御意に、殿」
五郎は再び、確固たる足取りで歩みを進めるのであった。
数正という「盾」を失い、正信という「毒」を連れて。
徳川の嘘は、秀吉という怪物の胃袋の中で、より深く、より完璧な「神話」へと変貌していくのであった。




