【第十二話:常世の共犯者 —— 異郷の記憶、沈黙の城】
天正十四年、二月。五郎は長年住み慣れた浜松を離れ、駿府へと拠点を移した。
かつて五郎が、本多忠真の厚い庇護のもとで経を読み、薬草を煎じていたあの静かな山寺は、ここではない。五郎にとっての故郷は三河の山にあり、この駿府の街並みは、どこを見渡しても「他人の記憶」の断片でしかなかった。
駿府。そこは本物の家康が幼少期に今川家の人質として過ごし、青春の辛酸を舐めた地である。家臣たちは皆、主君が思い出の地へ戻ったことを喜び、街の老人たちは「竹千代様がお帰りになった」と涙を流して五郎を迎えた。だが、五郎の胸中に去来するのは、郷愁ではなく、底知れぬ空虚であった。
この移転は、出奔した石川数正が密かに授けていった「最後の策」でもあった。数正が豊臣へ持ち出した書類の中には、浜松城の内部構造を詳細に記した図面が含まれている。徳川の軍事拠点をあえて丸裸にすることで、五郎を物理的に移動させ、過去を上書きさせるための強引な手引きであった。
「浜松を捨て、駿府へ拠点を移されよ。あそこならば、皆が知るのは幼少期の『竹千代様』のみにございます」
数正のあの低い声が耳の奥で蘇る。
成人してからの家康を誰も知らぬこの地ならば、少々の性格の変節も、僧のような佇まいも、「長年の辛苦が、あの快活だった竹千代様をこれほどまでに変えたのだ」という同情一つで片付く。数正は、五郎が「家康」を演じ続けるための究極の聖域として、この思い出の地を選び抜いたのだ。
「……ここが、兄上の育った街か」
再建の進む駿府城の石垣の上に立ち、五郎は眼下に広がる街並みを眺めた。かつて兄が歩いたであろう道、眺めたであろう富士の嶺。それらすべてに、自分だけの思い出は何ひとつとして存在しない。五郎は今、歴史という名の巨大な舞台装置の中に、一人放り出されたような錯覚に陥っていた。
「殿、あまり風に当たられては体に障ります」
背後からお愛が声をかけ、厚手の羽織を差し出した。お愛もまた、五郎の瞳に宿る色が「帰郷の喜び」ではないことを、鋭く察していた。
「お愛。……私は、怖いのだ。この街の誰もが、私が知らない『竹千代』を知っている。私が知らない『人質の苦労』を語りかけてくる。……石川数正という盾を失い、私は今、剥き出しのままこの嘘の街に立っている」
数正がいれば、この街での振る舞いも、幼少期の思い出話も、すべて完璧に「プロデュース」してくれただろう。だが今や五郎は自らの力で、他人の記憶を自分のものとして語り、演じ続けねばならなかった。お愛は静かに五郎の隣に立ち、同じ景色を見つめた。
「……それでよろしいのです、殿。貴方様がこの街を『知らない』ということは、ここから貴方様だけの新しい徳川の歴史を書き始められる、ということでもあります。本物の家康公が人質として耐えたこの地で、貴方様は『泰平の王』として、新しい城を築くのです」
お愛の力強い言葉に、五郎は深く息を吐いた。
そうだ。ここは兄の過去を辿る場所ではない。数正が言った通り、古い徳川の影を切り捨て、自分という「偽物の家康」を、天下が認める「唯一の主君」へと作り変えるための戦場なのだ。
五郎は懐から、もうすっかり古びた香袋を取り出し、その微かな香りを吸い込んだ。
「……行くぞ、お愛。この駿府で、私は神になる。秀吉という男が、二度と徳川を侮れぬほどの、巨大な嘘の城を築いてみせる」
五郎が駿府で「新たな神」としての足場を固め始めた三ヶ月後。五郎の平穏を脅かす、最大級の試練が到着した。秀吉の妹、朝日姫の輿入れである。
豪奢な輿から降り立ったその女性は、天下人の妹という煌びやかな肩書きとは裏腹に、どこか頼りなげで、怯えた仔鹿のような瞳をしていた。兄の野望のために最愛の夫と無理やり離縁させられ、異郷へ送り込まれた彼女は、四十三歳という年齢以上に、その心は摩耗しきっているように見えた。
「……朝日殿。ようこそ、駿府へ参られた」
五郎は最大限の礼節をもって彼女を迎えた。しかし、差し出された彼女の手が微かに震えているのを、五郎は見逃さなかった。男女の情など微塵もない、役割を押し付けられた者同士の出会いであった。
朝日姫を囲む二人の女性がいた。
一人はお愛である。彼女は朝日姫の境遇に深く同情し、実の姉を迎えるような温かさで接した。お愛の微笑みは、朝日姫の凍りついた心を少しずつ溶かしていった。
一方で、阿茶局の眼差しは鋭かった。数正なき今、徳川を守るための「盾」として、彼女は朝日姫の一挙手一投足に、秀吉からの毒が含まれていないか冷徹に観察し続けた。
だがある夜、お愛が朝日姫の髪を解いている時に、真実が零れ落ちる。
「……お愛様。私は、恐ろしゅうてならなかったのです。兄上からは『徳川の様子を知らせよ』と言い含められましたが、私にはそのような真似は、到底できはしませぬ」
朝日姫は泣いた。誰かを傷つけることを恐れ、ただ生身の人間として震えている彼女の姿を、襖の影から見守る五郎がいた。
「……阿茶。あの人は、我らと同じだ」
五郎の呟きは、名を背負い、己を殺して役割を演じ続ける者への痛切な共感であった。
五郎の正体までは知らぬ阿茶だったが、三方ヶ原以降、主君が背負い続けている「徳川家康」という仮面の重圧とその奥にある底知れぬ孤独を彼女は誰よりも近くで見てきた。主君が朝日姫に見た「同じ影」が何であるかを、阿茶は彼女なりの解釈で深く理解したのである。
阿茶は鋭い眼光をわずかに和らげ、静かに頷いた。
「……左様でございますね。あの御方もまた、巨大な波に呑まれた、ただの生身の人間。……あまりに哀しい毒を飲まされておいでだ」
五郎は、懐の香袋に触れた。
天下を騙す「嘘」の城の中に、また一人、守らねばならぬ「真実の命」が増えた。五郎は、朝日姫を守り抜くことが、秀吉という怪物に立ち向かうための、自分なりの「戦」になると確信した。
徳川の嘘は、皮肉にも秀吉の妹という「人質」をも包み込み、より一層、深く、静かに、駿府の地に根を張っていくのであった。




