【第十一話:二人の影 —— 逆臣の背中と忍びの誓】
天正十三年、十一月。
岡崎の城下を外れ、豊臣の領地へと急ぐ石川数正の前に、一条の殺気が走った。
音もなく立ち塞がったのは、服部半蔵である。その手に握られた小太刀が、月光を浴びて冷たく光っていた。
「……やはり来たか、半蔵」
数正は驚く様子もなく、足を止めた。半蔵の瞳には、かつてないほどの冷徹な殺意が宿っている。
「数正殿。貴殿は知りすぎた。……殿の正体を知る者が徳川を去る。それは、私が今日ここで貴殿を斬らねばならぬことを意味する」
半蔵の声は低く、地を這うようであった。徳川の闇を司る者として、この「最大級の機密」を抱えた男を野に放つことは許されない。だが、数正は薄く笑みを浮かべた。
「……左様だな。お前の役目だ。……だが半蔵、私を斬れば、秀吉という怪物を誰が食い止める。誰が、豊臣の内側から殿の『嘘』を墓場まで持っていく壁となるのだ」
半蔵の剣先が、わずかに震えた。
「……何だと?」
「……あの日、三方ヶ原で名もなき小僧を拾い上げ、怪物に仕立て上げたのは私だ。なれば、その怪物が天下を取るまで、私が盾となり、毒となって敵を欺き続ける。……半蔵。お前が影として殿を物理的に守るなら、私は光の中で泥を被り、殿の『正体』を守ろう。……秀吉に疎まれ、政の片隅に置かれ、歴史の塵となる。それが私の、殿への最期の奉公だ」
沈黙が流れた。
半蔵はゆっくりと小太刀を収めた。忍びとして生き、数多の「嘘」を見てきた半蔵にとって、数正のその言葉は、どの真実よりも重く、そして哀しく響いた。
「……数正殿。貴殿は……私以上の忍びだ。……主君のために、己の『名』すら殺すか」
「……ふん。お前に褒められても嬉しくはない。……さらばだ、半蔵。殿を、よろしく頼むぞ」
半蔵は何も答えず、ただ深い闇の中へと姿を消した。徳川最大の裏切りは、徳川最大の「影の盾」によって、密かに完遂されたのである。
数正が豊臣に降り、信濃松本へと移ってからも、半蔵の役目は終わらなかった。
五郎は表向き、数正を激しく憎む主君を演じていた。家臣たちの前では、数正の名を聞くだけで顔を歪ませ、その不忠を呪ってみせた。だが、独りになった夜、半蔵を呼び出しては静かに問いかけた。
「……半蔵。あやつは、どうしている」
「はっ。数正殿、松本にて城を築き、豊臣の家臣として淡々と過ごされております。秀吉公も、重用している体を装いながら、その実は中枢からは遠ざけ、監視の目を光らせておいでです」
秀吉から与えられた松本十万石。それは一見すれば報奨であったが、実態は徳川を牽制するための、逃げ場のない「黄金の檻」であった。
半蔵は、数正の様子を伺うため、しばしば密かに信濃へと足を運んでいた。数正が独り、月を見上げながら徳川の安泰を祈る背中を、半蔵はその目に焼き付けていた。
「……あやつ、何か申していたか」
「……一度だけ、風に紛れて聞こえました。『駿河の白檀は、今も香っているか』と。……お愛様のことを案じておられるご様子でした」
五郎は、懐のお愛の香袋を握りしめ、窓の外の月を見上げた。
豊臣という敵地のど真ん中で、一人で孤独に耐え、自分という「影」を守り続けている男。半蔵が届けるその短い報告だけが、五郎にとって、数正との絆を確かめる唯一の時間となっていた。
「……そうか。……半蔵、これからもあやつを見守ってやってくれ。……あやつが、寂しく死なぬようにな」
「……御意にございます。……殿」
半蔵は深々と頭を下げた。
主君を守る半蔵と、その「正体」を守る数正。二人の「影」の連携が、徳川という巨大な嘘を、誰にも壊せぬ真実へと変えていった。
やがて訪れる泰平の世を、二人がその目で見届けることは叶わなかったが、彼らが命を懸けて繋いだ「嘘」は、やがて来る江戸の夜明けを、その根底から支え続けることになるのである。




