【第六話:神君伊賀越え —— 影の慈悲、金剛の盾】
伊賀の山は、まさに地獄であった。
鬱蒼と茂る木々の陰から、落武者狩りの野盗や一揆勢が、虎視眈々と「家康の首」を狙っている。急峻な崖を登り、獣道を這い進む一行の疲弊は、もはや極限に達していた。
「――かかれッ!」
霧の向こうから、数十人の野盗が咆哮と共に飛び出してきた。五郎が咄嗟に刀に手をかけた時、本多平八郎忠勝がその前に音を立てて立ち塞がった。
「――下がっておれ! ここは、この平八郎が引き受けたッ!」
忠勝は、主君の名を叫ぶような愚は犯さなかった。ただ、一振りの蜻蛉切を暴風のごとく振り回し、襲いかかる雑兵を次々と薙ぎ払っていく。その戦いぶりは鬼神そのものであったが、その瞳は常に、背後にいる五郎の無事を確認していた。
忠勝にとって、目の前の男が本物であるか否かはもはや些事であった。あの泥濘の夜、馬の背で震えていた一人の若者の「覚悟」に惚れたのだ。この命を三河へ届けること、それこそが、彼が「金剛の盾」として生きる唯一の義であった。
忠勝が盾となり、半蔵が影となって敵を屠る中、五郎は寺育ちの身軽さを活かして険しい山道を駆けた。道すがら、五郎は足を止めては自生する薬草を鋭く見極め、摘み取っていく。
「これは苦いが、胃の腑を整え、気を奮い立たせる。……飲め。死なせてなるものか」
泥にまみれ、家臣たちの傷口を自ら洗い、薬を塗るその姿。武将らしからぬ、しかし命に対する深い慈しみ。家臣たちは、この「家康公」の不思議な温かさに、知らず知らずのうちに魂を救われていた。
しかし、ついに伊賀衆の根城において、徳川勢は数千の忍びに包囲された。織田に故郷を蹂躙された伊賀の者たちにとって、その同盟者であった徳川は、憎き仇敵に他ならない。
絶体絶命の窮地。半蔵が一人、交渉の場に臨んだ。
「伊賀の民よ。……我らが主君を見よ」
半蔵が指し示した先には、泥にまみれ、家臣の傷を介抱する五郎の姿があった。
「あのお方は、力で領民を圧した信長公とは違う。家格も名誉も捨て、一人の男としてお主たちと同じ泥水を啜り、この山を越えてきた。……あのお方の手を見よ。太刀のタコではなく、草を煎じ、人を救うためのタコがある。……これよりの泰平、どちらに預けるべきか。お主たちの眼で確かめよ」
伊賀衆の首領は、五郎の瞳を凝視した。そこには「怪物」の傲慢さはなく、ただ静かに、明日を生きようとする人間の意志があった。五郎が懐からお愛の「白檀の香袋」を出し、祈るように目を閉じる。その香りは、殺伐とした山中に、不似合いなほどの安らぎをもたらした。
その時、五郎の懐の文箱で、あの「ひしゃげた元康の紙」が、彼の鼓動を刻むように熱を帯びた。
「……通れ。……徳川家康公。……貴殿の作る泰平、拝見させていただこう」
首領の重い一言と共に、伊賀の山が道を開けた。
天正十年、六月四日。五郎は伊勢の白子から船に乗り、奇跡的に三河へと生還した。
打ち寄せる波音を聴きながら、五郎は安土で信長が遺した言葉を反芻していた。
『偽物よ、そのまま神にまで成り上がれ。俺が作りすぎた歴史を、貴様のその嘘の優しさで塗り潰してみせよ』
「……使い勝手が良い、か。……ならば、お望み通りになってやろう」
海風に吹かれ、五郎の瞳から迷いが消えていく。
かつての名もなき「小僧」は、この死線を越えたことで、自らの意志で「神」という名の嘘を生き抜く怪物への階段を上っていったのである。
三河の土を踏んだ時、五郎を待っていたのは、涙を流すお愛と、冷徹な仮面を崩した阿茶の姿であった。
五郎は、数正の肩を強く叩いた。
「数正。……戻ったぞ。……私たちの地獄へ」
数正は、何も言わず、ただ深く、深く頭を垂れた。その背中には、これから始まる「さらなる嘘」への覚悟が、静かに、重く漂っていた。




